寿綾乃という女 第2部 65
…菊池リン…
もしかしたら、私の生涯、一番の強敵が、目の前に、今、いる…
私は、今さらながら、考える…
警戒警報というと、大げさだが、あらためて、自分自身に警告した…
…この女に隙を見せては、ならない!…
…用心しろ!…
自分自身に、厳命した…
すると、
「…なに…綾乃さん…怖い目で、私を見ているんですか?…」
と、菊池リンが、屈託のない笑顔で、私に語りかけた…
その笑顔を見て、私は、考えた…
…叶わない!…
この菊池リンには、叶わない!
直観的に悟った…
私が、男ならば、私と、菊池リンの、どっちを選べと、言われれば、間違いなく、菊池リンを選ぶ…
思えば、私の方が美人…
32歳と、23歳の菊池リンと比べれば、9歳上だが、美人…
うぬぼれではなく、美人だ…
ただし、彼女の愛くるしさには、叶わない…
仮に、40歳の男が、いて、私を美人だと、認識してくれるとする…
が、
当然、距離は置く…
しかしながら、この菊池リンは、その40歳の男に、
〇〇さんと、言いながら、軽く腕を組み、容易く、40歳の男の心の中に、スルリと、入っていけそうだ…
私には、とても、真似のできない芸当だ…
私、寿綾乃という女とのキャラの違いとい
ってしまえば、それまでだが、その違いは、大きい…
容易く、ひとの心に入り込むことができる…
思えば、初めて、会ったとき、FK興産の社内で、会社の若い男たちが、
「…この会社で、一番の美人といえば、寿さんだろ?…」
と、言い、
「…いや、寿さんは、もうお年だから…一番の美人は、今度入ってきた、菊池さんだろ…」
と、言ったのを聞いたときに、気付くべきだった…
あのとき、偶然、耳にした、私と菊池リンの評価…
あれが、すべてだった…
あのときに、おおげさにいえば、私は、いずれ、彼女と対決することが、わかっていた…
予感していたのかもしれない…
そして、彼女、菊池リン…
この菊池リンが、叶わないのが、女子高生…
自分より、はるかに、若く、同じような武器を持ったものには、叶わない…
負ける…
そして、その武器とは、愛くるしさ…
誰の懐にも、容易に、飛び込める愛くるしさだ…
同じ愛くるしさを武器にしていれば、自分よりも、若い女に負ける…
若い方が、より、愛くるしいからだ…
私は、この菊池リンを間近に見ながら、考え続けた…
しかし、眼前の菊池リンは、屈託なく、
「…綾乃さん…そんな怖い顔をして、なにを考えているんですか?…」
と、私に聞いてきた…
おそらく、私が、なにを考えているかは、わかっているに違いない…
だから、私は、
「…菊池さん…アナタも、色々、大変ね…」
と、言った…
「…大変? …なにが、大変なんですか?…」
「…佐藤さんとか…」
「…佐藤さん?…」
菊池リンは、呆気に取られた表情になった…
「…そういえば、彼女は、綾乃さんの担当の看護師だったんですものね…」
菊池リンが、言った…
むろん、わざと、だ…
菊池リンが、佐藤ナナのことを、知らないわけはない…
私は、なにか、言おうか、どうか、迷ったが、なにも、言わなかった…
言わない方が、いいと、判断したのだ…
不用意な言葉をうっかり、漏らして、彼女に揚げ足を取られでも、したら、最悪だ…
何度も言うようだが、すでに、私の中では、彼女は、要注意人物にまで、格上げしていた…
もっとも、注意すべき、危険人物になっていた…
だから、うっかり、話せない…
そこから、どう話が展開するか、わからないからだ…
そんなふうに、身構えていると、
「…綾乃さん…」
と、菊池リンが声をかけた…
「…お茶でも、どうですか?…」
「…お茶って?…」
「…ほら、そこのカフェで、コーヒーでも…」
目の前のスタバを指した…
私は、一瞬、悩んだが、断る理由もなかった…
しいて言えば、体力面で、まだまだ不安はあったが、それを理由に断ることもできた…
が、
今、ここで、菊池リンと、会ったのは、チャンス…
大げさにいえば、チャンスだった…
私、寿綾乃が、伸明さんと交際する上で、五井家の人間と、付き合うことは、避けては、通れない…
ならば、どうしても、騒動の内幕に接する必要がある…
私は、そう考えた…
だから、おおげさにいえば、虎穴に入らずんば虎子を得ずの気持ちで、
「…ええ…いいわね…」
と、応じた…
スタバに入ると、菊池リンは、なにやら、楽しげでもあった…
「…なんか、綾乃さんと、いっしょに、いるって、久しぶりですね…」
「…そうね…」
「…伸明さんと、最近、どうですか?…」
いきなり、核心を突いた…
「…会ってないわ…」
「…会ってない?…」
驚いた様子だった…
「…ええ…全然、会ってない…」
「…どうして、ですか?…」
「…どうしてって?…」
「…どうして、会ってないんですか?…」
「…忙しいのよ…伸明さん…」
「…」
「…連絡が来ることは、あまりないし、私から、連絡するのも、なんだし…」
「…」
「…要するに、立場ね…立場の違い…身分の違い…」
「…身分の違い?…」
「…菊池さんにとっては、伸明さんは、身近な存在だろうけれども、私にとっては、雲上人…まさに、雲の上の存在…」
「…」
「…だから、気安く、こちらから、連絡できない…」
私の言葉に、菊池リンが、しんみりした…
それから、少しして、
「…矛盾してますね…」
と、言った…
「…矛盾…どういうこと?…」
「…そんなに、身分が違うと思うなら、最初から付き合わなきゃ、いいじゃありませんか?…」
私は、予想外の彼女の言葉の激しさに、
「…そうね…」
と、同意した…
「…そうねじゃ、ありませんよ…」
菊池リンが、激しくなじる…
私は、そんな彼女を見ながら、
「…菊池さんには、私の気持ちはわからない…」
と、ゆっくりと言った…
「…綾乃さんの気持ち?…」
「…っていうか…庶民の気持ち…」
「…庶民の気持ち?…」
「…日本中に名の知れた五井の御曹司と付き合える…それだけで、誰でも天にも昇る気分…」
「…綾乃さんでも?…」
「…どうして、私でもなの?…」
「…綾乃さんは、私から見ても大人で、落ち着いて見える…それでも、五井の名前は大きいですか?…」
「…大きいわ…」
「…でも、伸明さんを自分から、誘うような真似はしない…綾乃さん…ズルい…」
「…なにが、ズルいの?…」
「…自分から、連絡しなければ、男のひとは、焦らされる…」
「…焦らされる?…」
「…いつ、連絡が来るのか、気になる…だから、余計に綾乃さんに夢中になる…」
「…」
「…綾乃さんが、美人だからできる芸当…しっかりと、自分の力をよくわかっている…」
…まさか?…
…まさか、菊池リンから、そんな言葉を聞くとは、思わなかった…
他の人間から、聞くのは、わかる…
だが、この菊池リンから、聞くとは、思わなかった…
やはりというか…
油断できない…
見た目と中身が、違う…
用心しなければ、ならない…
私は、あらためて、自分自身に、きつく、厳命した…
…この女に気をつけろ!…
と、厳命した…
「…綾乃さん…」
「…なに? 菊池さん?…」
「…綾乃さんの夢って、なんですか?…」
「…夢? …そんな、いきなり、言われても…」
「…だったら、時間を置きます…5分でも、10分でも、待ちます…教えてください…」
私は、目の前の菊池リンの言葉に、考え込んだ…
それから、ゆっくりと、
「…そうね…やはり、自分の家庭を持つことかな…」
「…家庭?…」
「…優しい旦那さんがいて、自分の子供がいる…そんな平凡だけど、そんな平凡な家庭が欲しかった…」
「…でも、綾乃さんは、すでに家庭を持っていたんじゃ…」
「…ジュン君のこと?…」
菊池リンが、無言で、首を縦に振って、頷いた…
「…たしかに、ジュン君は、息子のようだった…でも、息子じゃない…」
「…どういう意味ですか?…」
「…歳が近過ぎる…二十歳のジュン君と、私じゃ、12歳しか、離れていない…十二歳の違いじゃ、母親とは、いえないでしょ?…」
「…」
「…だから、ホントは、自分の子供が欲しかった…自分の血が繋がった子供が、欲しかった…そして、旦那さん…私と旦那さん…そして、子供が、一人でも二人でもいて、普通の平凡な家庭を築きたかった…」
私は、言った…
そんな私の告白に、
「…随分、平凡な夢ですね…」
と、菊池リンは、辛辣だった…
「…綾乃さんは、もっと、大きな夢を持っていると思いました…」
「…大きな夢? …どんな?…」
「…それは、わかりません…でも、綾乃さんは、キレイだし、頭もいい…おまけに、藤原ナオキの秘書…だから…」
「…私は単なる高卒よ…」
「…高卒?…」
「…頭だって、決して良くない…」
「…謙遜です…」
「…いえ、そう見えるだけよ…」
「…見えるだけ?…」
「…そう…見えるだけ…自分で言うのも、なんだけれど、私は、落ち着いて、堂々としていると、他人から見えるらしい…でも、だったら、頭がいいかと、言えば、それは、違う…」
「…どう、違うんですか?…」
「…東大にいっている人間が、全員、落ち着いて、堂々としているわけじゃないでしょ?…」
「…」
「…菊池さんは、五井家の人間だから、東大を出た人間も、多く知ってるでしょ? なかには、頼りないひととか、一見、頭が良く見えないひとも、いるでしょ?…」
「…それは…」
「…ないとは、いえないでしょ? だから、菊池さんが、私が、頭が良く見えると言ったのは、お世辞か、もし、本当に、そう思ったのならば、菊池さんが、他人と接していて、その人間の頭の中身を読む力がないってこと…」
私は、構わず、ぶっちゃけた…
今までの彼女だったら、絶対、口にしない言葉だった…
だが、今は、違う…
彼女、菊池リンは、私と同等どころか、はるかに、能力が上の人間だと悟った…
だから、遠慮しないというか…
グズグズしていたら、こっちが、やられると、思った…
が、
やはりというか…
「…綾乃さん…言いますね…」
と、苦笑しただけだった…
「…たしかに、私は、頭がない…それを、この顔で、隠しているかもしれない…」
苦笑いを浮かべて、続けた…
「…だったら、今度は、私が、質問していい?…」
「…なんですか?…」
「…菊池さんの夢って、なに?…」
「…私の夢?…」
「…だって、今、菊池さん…私の夢を聞いたでしょ? …だったら、菊池さんの夢はなに?…」
私の質問に、目の前の菊池リンは、黙り込んだ…
答えないというより、答えられない…
真剣に悩んでいる様子だった…
かなり、時間が経って、
「…夢はないです…」
と、答えた…
「…ない?…」
「…ハイ…私は、五井家の人間に生まれました…こういっては、なんですが、生まれつき、お金持ちで、欲しいものは、なんでも、手に入りました…伸明さんのようなイケメンもいて、ルックスのいい男も、お金も、すべて、身近にありました…だから、いずれは、やはり同じようなお金持ちの、ルックスのいい男と結婚するものだと、勝手に思い込んでました…」
「…」
「…でも…」
そこで、言い淀んだ…
「…でも、なに?…」
「…許せないんです…」
「…なにが?…」
「…佐藤ナナ…いきなり、現れて、五井本家の養女になって…」
菊池リンが、悔しそうに、言った…
「…しかも、五井本家の養女…身分としては、私よりも上…いきなり、現れて、私より上の身分…それが、許せない…」
「…」
「…とにかく、許せないんです…」
菊池リンが、激しい口調で、非難する…
さもありなん…
私には、彼女の気持ちが痛いほど、わかった…
突然、現れて、五井本家の養女となる…
つまり、その時点で、佐藤ナナは、菊池リンよりも、五井家での格付けは上となる…
それまでは、菊池リンは、五井家のアイドル…
秋篠宮佳子様が、皇族のアイドルであるように、同じように、五井一族のアイドルだった…
それは、亡くなった、五井家の前当主、建造もまた、口にしていた…
だから、いわば、周囲にチヤホヤされて、いた…
秋篠宮佳子様もように、愛くるしく、誰からも好かれる容姿…
当然、一族でも、チヤホヤされ、愛される…
だから、ある意味、夢がないのも、当然…
自分が、動かずとも、周囲が勝手にお膳立てしてくれる環境…
だから、なにもせずとも、周囲の人間が、良い縁談を持ってきてくれる…
なにもせずとも、容姿端麗のお金持ちの男と結婚して、それまでと同じお金持ちの人生を一生送る…
そう思っていたに違いない…
私は、それを、非難しない…
当たり前だと、思う…
お金持ちの家に生まれ、なにひとつ不自由のない生活を送る…
おまけに、ルックスもよい…
ならば、それが、当然…
自分は、特別な人間だと思う…
特別な人間の自分が、特別な人生を送る…
それが、自分にとって、当たり前だからだ…
だから、夢は持てない…
これ以上、望むものが、ないからだ…
そんな、ある意味、これ以上ないほど、恵まれた環境で、育った、菊池リンは、知らず知らずのうちに、自我がこれでもかと、思うほど肥大化する…
自分が、一番と思う…
そんな自我が肥大化した菊池リンの前に、佐藤ナナが現れたのだ…
しかも、佐藤ナナもまた、ルックスがよい…
菊池リンと比べて、甲乙つけがたい…
しかも、同じような、愛くるしいルックス…
大げさに言えば、もうひとりの菊池リンが、突然、現れたようなもの…
自分の分身が、突然、目の前に現れたようなものだからだ…
これでは、菊池リンが、意識するなという方が、無理…
佐藤ナナにライバル心を抱くなという方が、無理に違いない…
「…あの女は、許せない…」
突然、菊池リンが、呟いた…
「…絶対、許せない…」
繰り返す…
私は、目の前の菊池リンを見て、不思議だった…
どうして、そこまで、佐藤ナナを、憎むのか、不思議だったのだ…
たしかに、菊池リンの立ち場に立てば、佐藤ナナが、許せないのは、わかる…
しかし、それを、ここまで、口にするものなのか?
疑問だった…
…なにか、ある?…
そう、直観した…
だから、
「…どうして、佐藤さんを許せないの?…」
と、菊池リンに聞いた…
すると、菊池リンは、私をキッと、睨みつけた…
まるで、親の仇のように、憎々しげに、私を睨んだ…
そして、言った…
「…あの女…佐藤ナナは、伸明さんとの結婚を、狙ったんです…五井家当主の妻の座を狙ったんです…」
仰天の言葉を言った…




