寿綾乃という女 第2部 31
その日を境にと、言うと、大げさだが、私の気持ちは、前向きになった…
いよいよ、退院が現実になる…
そんな環境に、心躍らせたというか…
ウキウキした気持ちの半面、これから、自分が巻き込まれるであろう、騒動を、思うと、気分が、落ち込んだ…
…一波乱ある…
…五井の騒動は、まだ、なにも、終わっていない…
当たり前だが、そんな現実を見据えていた…
週刊誌やネットでは、当初こそ、重方、冬馬、父子が、五井家から、追放されたのを、契機に、アレコレ書き立てたが、話題が、続かなかった…
最初こそ、上級国民の一族の内紛と、捉え、国会議員である、菊池重方や、五井記念病院の理事長である、息子の冬馬のことを、面白おかしく、報じていたが、中身が続かなかった…
父親の菊池重方は、自民党で、菊池派の立ち上げを画策したが、すぐに、呆気なく、断念…
軌を一にして、息子の冬馬が、五井記念病院の理事長を、実質、解任された…
これは、五井家の内紛に違いないと、話題に飢えていた、マスコミは、色めきだったが、後が続かなかった…
菊池重方、冬馬、父子の続報が、なかったからだ…
誰もが、重方、冬馬、父子の反撃を予測したが、なにもなかった…
あるいは、なにか、水面下で、仕掛けているのかもしれないが、その動きが、報じられることがなかった…
もしかしたら、水面下で、仕掛けていても、あっさりと、あの五井家の女帝の昭子に、反撃の芽を潰されたのかもしれなかった…
いずれにしろ、目に見える形での反撃は、なかったと、言える…
それゆえ、すぐに、世間から、忘れ去られた…
続報が、続かないのだから、ある意味、当たり前だった…
そして、私はと言えば、だいぶ、動けるようになってきた…
一人で、松葉杖をついて、歩くのは、もちろんのこと、五メートルぐらいの短い距離ならば、松葉杖なしでも、歩けるようになってきた…
私のあまりの進展と言うか、体力の回復に、担当の看護師の佐藤ナナも目を見張った…
「…寿さん…凄い…」
文字通り、目を丸くした…
「…ありがとう…」
私は、皮肉でも、なんでもなく、素直に、礼を言った…
「…これで、もうすぐ退院できる…」
私の言葉に、佐藤ナナが、微妙な表情になった…
「…ということは、もうすぐ、お別れですね…」
「…そうね…」
「…寂しいです…」
「…私も…」
私と、佐藤ナナは、病院の外の庭を散歩しながら、言った…
この外への散歩が、毎日の日課となっていた…
やはり、散歩は、外に限る…
病院の廊下を、松葉杖をついて、歩いても、リハビリには、なるが、それでは、つまらないし、なんだか、味気ない…
病院の庭に出れば、たかだが、建物から、一歩外に出たに過ぎないが、目の前の光景が、変わる…
景色が変わる…
そういうことだ…
そして、前回、初めて、この病院の庭に出た頃、あの菊池重方と、この場所で、会った…
そんなことを、思い出した…
重方は、あらかじめ、この場所で、私を、待ち構えていた…
この佐藤ナナが、冬馬に、連絡し、その冬馬が、父の重方に、教えた…
そういうことだ…
だが、なぜ、重方が、私に接触したか?
今もって、その理由が、わからなかった…
まるで、私が、五井家の騒動のキーパーソンのような扱いだった…
まあ、そんなに深く、考えずとも、実際は、私が、諏訪野伸明と結婚するかもしれないから、私に接近したというのが、真相だろう…
五井家当主、諏訪野伸明の妻となる女と、親交を得ることは、悪いことではない…
むしろ、五井家内で、生きるのに、際して、五井本家の人間と、親交を深めるのは、必須だ…
と、ここまで、考えて、気付いた…
これでは、話が、逆だ…
これでは、重方が、五井家残留に、必死になっているように、思える…
現実は、五井家残留ではなく、五井家の本家を、乗っ取ろうとしていたのだ…
私は、思った…
と、思いながら、気付いた…
諏訪野マミの言葉を、だ…
重方は、周囲に流されやすく、気の弱いところがあると、彼女は、言っていた…
そして、息子の冬馬は、それを嫌っていた、と…
その重方を、嫌う原因は、冬馬もまた、自分自身が、父の重方同様、ひとに、流されやすい面があり、それを自覚していたからだ、と…
ということは、どうだ?
あのとき、重方が、私に、接触してきた真意を、だ…
菊池重方は、米倉平造という人物と、組んで、五井家を乗っ取ろうとした、と、藤原ナオキは、言っていた…
米倉平造は、やり手として、知られる人物だと言った…
要するに、米倉平造は、菊池重方が、くみしやすいと、見たに違いなかった…
あるいは、
利用しやすいと、見たに、違いなかった…
重方を、そそのかして、五井家の分断を狙ったのかもしれなかった…
そして、そんなふうに、他人に御しやすいと、見られる、重方を、姉の、昭子は、嫌っていたに違いない…
重方は、無能ではない…
だが、他人に御しやすいと、思われる、人間的な弱さがある…
その弱さゆえ、他人に利用されやすいから、国会議員になることを、反対したに違いない…
国会議員になれば、五井家の金を目当てに、寄って来る輩が、たくさんいるからだ…
それを、昭子は、恐れて、重方が、国会議員になることを、反対した…
が、
結果は、どうだ?
重方は、自民党の大場派の幹部…
五井の金を使ったか、どうかは、わからないが、現在の地位を見たときは、昭子の目は、狂っていたことになる…
間違っていたことになる…
なぜなら、自民党の派閥の幹部の位置に就けたからだ…
大多数の国会議員は、その地位に就けない…
ということは、どうだ?
菊池重方は、国会議員として、出世したということになる…
成功したということになる…
つまりは、昭子の読みは、間違っていたことになる…
ということは、どうだ?
昭子は、本当は、重方を、恐れていた?
そんな仮説も、成り立つ…
恐れているがゆえに、国会議員になることを、反対した…
国会議員になれば、力を持つことができる…
必然的に、五井家内での地位も、上がる…
すると、どうだ?
なにが、困る?
息子の伸明の邪魔になることを、恐れたのではないか?
力をつけた重方が、伸明の邪魔をしたり、あるいは、伸明をはるかに超える力を得ては、困る…
ありていに、言えば、五井家内での、パワーバランスが、崩れる…
そういうことだ…
それを、恐れた可能性もある…
それゆえ、息子の冬馬共々、追放した…
そうともいえるのではないか?
私は、思った…
が、
これは、仮設…
あくまで、仮説に、過ぎない…
重方の本当の評価は、国会の関係者に聞いてみなければ、わからない…
私が、そんなことを、考えてると、傍らの看護師の佐藤ナナが、
「…寿さん…なにを考えてるんですか?…」
と、いきなり、聞いてきた…
「…なにを、考えていると、言っても…」
私は、曖昧に、言葉を濁した…
私と、佐藤ナナは、前回、菊池重方と、会った時と、同じ、ベンチで、二人とも、腰かけて、座っていた…
いわゆるリハビリの散歩の最中で、休憩を取っているところだった…
「…やっぱり、結婚ですか?…」
佐藤ナナが、私をからかうように、ニヤニヤして、問いかける…
「…結婚?…」
考えもしなかった…
たしかに、私と諏訪野伸明の結婚は、噂されてるが、当の私は? というと、半信半疑というか…
本当に、私でいいのだろうか?
という気持ちと、
なにか、裏があるのではないか?
という気持ちが、半々…
いや、
明らかに猜疑心が、勝っている…
あの昭子自らが、私を伸明の嫁にと、言ってくれたが、どうにも、信じられないのだ…
なにより、私の当面の課題は、体力の回復だった…
松葉杖を用いず、以前のように、普通の生活ができることだった…
癌のことは、あるが、こればかりは、考えても仕方がない…
いずれ、遠からず、天に召されるであろう…
その予感はあるし、それは、予感というよりも、確信に近いものだった…
だから、どうしても、結婚について、深刻に考えることができなかった…
「…その様子だと、あまり考えてないようですね…」
「…ええ…」
私は、曖昧に返事した…
「…どうしてですか?…」
「…どうしてって?…」
「…だって、寿さんは、諏訪野さんと、結婚するんでしょ?…」
「…それは、わからない…」
「…わからない…どうして、わからないんですか?…」
「…なんとなく、実感が湧かないというか…それに…」
「…それに、なんですか?…」
「…私の病気…」
「…病気?…」
「…今、こうして、松葉杖をついているのも、そうだけど、癌のこともある…」
「…」
「…だから、どうしても、自分の体調が、優先になるというか…一番になる…」
「…」
「…あとは、五井家のゴタゴタ…」
「…ゴタゴタ…」
「…私は、ただ、この五井記念病院に、入院しているだけなのに、なぜか、五井家のゴタゴタに、巻き込まれている…」
「…」
「…正直、どうしてだか、わからないけど、五井家の人間が、次々と、私の元にやって来る…私は、ただの病人なのに…」
私が、わざとボケても、佐藤ナナは、笑わなかった…
むしろ、
「…ただの病人…」
という言葉に反応した…
「…ただの病人じゃないですよ…」
「…どういう意味?…」
「…だって、寿さんは、有名人じゃないですか?…」
たしかに、有名人に違いなかった…
私が、諏訪野伸明の、事実上の婚約者のような扱いだったのを、最初は、この病院の一部の者しか、知らなかった…
菊池冬馬や、長谷川センセイ、そして、この佐藤ナナだけしか、知らなかった…
しかしながら、重方、冬馬、父子が、五井家を追放され、冬馬は、この五井記念病院の理事長を、実質、解任された…
それが、週刊誌に載り、私の存在が、明らかになった…
五井家の内紛が、世間に公になり、その五井家の当主と、結婚するかもしれない、女が、今、五井記念病院に、入院している事実が、明らかになった…
それで、この病院の入院患者を、含めた、病院の関係者全員が、私の存在を知ることになった…
認知することになった…
いや、
違う…
もしかしたら、冬馬と、病院の廊下で、やり合ったときが、ダメ出しだったかもしれない…
この五井記念病院の理事長と、入院患者が、やり合ったのだ…
口げんかをしたのだ…
病院中の話題になることは、必然だった…
私は、そんなことを、考えた…
考え続けた…
すると、つくづく、結婚が、遠いと思った…
なんだか、わからないが、ゴタゴタが、多すぎる…
それに、私の体調…
正直、結婚どころではなかった…
私が、ジュン君の運転するクルマにはねられ、入院した…
が、
運よく、九死に一生を得た…
生き延びた…
辛うじて、九死に一生を得た、私の姿を見て、諏訪野伸明は、私と結婚したいと、思ったに違いなかった…
自分で、言うのも、なんだが、なくなって、初めて、気付くものがある…
誰もが、一番、思い当たるのが、肉親の死…
両親でも、祖父母でも、いたときは、あまり、好きではなくても、やはり、いざ、亡くなってみると、その存在感の大きさに気付くというか…
いかに自分にとって、大切な存在だったのか、実感する…
それと、同じ…
おそらく、私と知り合った当時は、諏訪野伸明は、私のことを、そこまで、大切な存在には、思っていなかったに違いない…
が、
危うく、私が、死にかけたことで、私が、自分にとって、得難い存在だと、気付いたのだろう…
自分で、こんなふうに自分のことを、言うのは、おもはゆいが、それが、事実だろう…
私は、思った…
事実、私と、諏訪野伸明は、たしかに、互いに、惹かれ合ったが、以前は、結婚を意識するまでの関係ではなかった…
すべては、私が、事故で、入院して、死にかけたことで、関係が変わったというか…
進化したというか…
それが、現実だった…
以前は、互いに、惹かれ合ったが、結婚を意識するまでの、関係では、なかった…
それを、思えば、僥倖…
まさに、禍を転じて福と為すだった…
危うく、事故で、殺されかけたことが、運命のいたずらか…
その後の人生を大げさに、言えば、決定づけた…
そもそも、あの事故がなければ、私が、諏訪野伸明と、結婚するかもしれないなどと、いうことは、なかった…
まさに、あの事故が、運命の分かれ目だった…
私の人生の分かれ目だった…
と、ここまで、考えて、気付いた…
私が、その後、この五井記念病院に担ぎ込まれた経緯を、だ…
私が、ジュン君の運転するクルマにはねられて、それを知った、菊池リンが、私を、この五井記念病院に入院させるべく、手配したと、後で、聞いた…
つまりは、別の見方をすれば、なにが、起こるか、あらかじめ、予想がついていたと、いうことだ…
いや、
予想がつかずとも、なにかが、起きることを、知っていた…
つまりは、あのとき、FK興産の社長室で、私は、藤原ナオキの元の妻である、藤原ユリコと、対峙した…
その結果、ユリコは、私の正体…
つまりは、私は、寿綾乃を名乗る女であり、本当は、別人…
従妹に過ぎないということ…
本物の寿綾乃は、亡くなり、私、矢代綾子が、寿綾乃と、入れ替わった…
それを知った…
それを、発案したのは、母…
亡くなった母だった…
従妹の寿綾乃は、大金持ちの隠し子…
そのときは、五井家の人間の隠し子だとは、知らなかったが、その寿綾乃になりすますことで、今後の私の人生が、好転すると、信じていた…
平凡な母が、娘の私にできる、ただひとつのことだった…
母が、自分の死に際して、できる、ただひとつのことだった…
金持ちの娘と、入れ替わることで、将来、莫大な財産を得られる可能性が、高いからだ…
ルール違反も甚だしいが、それが、母が、私にしてくれた、最大のプレゼントだった…
そして、私は、母の言う通りにした…
生まれ育った故郷を離れ、寿綾乃として、生きた…
それを、あのユリコが、掴んだ…
その秘密を掴んだ…
その秘密を、勝ち誇って、私に告げるユリコに、私もまた、反撃した…
ユリコの息子、ジュン君が、誰の子供か?と、聞いたのだ…
ジュン君は、藤原ナオキの子供…
これは、周知の事実だった…
が、
私には、どうしても、そうは思えなかった…
たしかに、姿形は、似ている…
父子といえば、疑うものは、いないに違いない…
にもかかわらず、私が疑問を持ったのは、ほぼ十年以上前に、別れて、姿を消した、ユリコが、突然、現れた…
が、
ユリコは、ジュン君とは、会うが、ナオキとは、一切会わなかった…
これが、疑問を感じた点だ…
いくら離婚しても、十年以上経って、再会すれば、ナオキと会っても、いいはずだ…
が、
それを一切しない…
しかも、ユリコとナオキは、互いに憎み合って、別れたわけではなかった…
結果的には、私が、ユリコからナオキを盗った形になった…
私としては、不本意だが、それが、事実だった…
妻帯者のナオキを、無理やり、寝取った形になった…
だから、ユリコと、ナオキの間に憎しみはないに違いない…
にもかかわらず、ユリコは、ナオキと会おうともしなかった…
私には、それが、引っかかった…
だから、あのとき、
「…ジュン君は、誰の子供ですか?…」
と、聞いた…
ジュン君の父親は、ナオキではない、確信があった…
普通は、ジュン君と再会すれば、ジュン君の父親のナオキとも、会おうと思うに違いないからだ…
それをしない、ユリコを疑った…
それを突かれた、ユリコは、動揺した…
そして、ほどなく、ジュン君の父親が、ナオキでない事実を認めた…
今の時代、DNA鑑定をすれば、容易に、血縁関係の有無がわかる…
それをほのめかした私に、ユリコが、白旗を上げた感じだった…
そして、それらの一切の出来事を、あの菊池リンは、近くで、息を潜めて、聞いていた…
私が、社長室を出たときに、菊池リンの姿を、見て、なぜ、彼女が、こんなところにいるのだろう?
と、疑問に思った…
が、
やがて、私が、会社を出て、ほどなく、ジュン君の運転するクルマにはねられて、菊池リンの正体に気付いた…
なぜなら、あのとき、ハンドルを握るジュン君は、泣いていた…
涙を流していた…
ということは、なにか、ショックを受ける出来事があったに違いない…
そして、思い当たるのは、ジュン君が、藤原ナオキの息子でないことを知った…
それだけだった…
私は、ジュン君と同居していて、ジュン君のことは、なんでも知っている…
その日までは、ジュン君は、自分の父親は、藤原ナオキだと信じていた…
しかし、それが、事実でないと知ったとしたら、菊池リンからの連絡に違いなかった…
菊池リンは、ジュン君とも交流があった…
だから、ジュン君のスマホの番号は知っている…
それゆえ、あのとき、菊池リンが、ジュン君に、教えたと、確信した…
が、ここで、言いたいのは、そのことではない…
あのとき、なぜ、ジュン君が、私をクルマで、はねたということだ…
もしや?
もしや?
あのとき、菊池リンが、ジュン君に、私をクルマで、はねることを、命じないまでも、ほのめかすような真似をしたのではないか?
不意に、そんな疑問が、脳裏に浮かんだ…
だから、それが、実際に起こったときに、すぐに、私を五井記念病院に、運ぶよう、手筈を整えていたのではないか?
そう思った…
つまりは、もしかしたら、菊池リンが、ジュン君を操った?
ということは、どうだ?
それは、菊池リンの発案か?
それとも、菊池リンの背後に誰か、いるのか?
それが、問題となる…
そして、普通に考えれば、誰かいる…
ジュン君に、クルマで、私をはねるように、仕向けた人間が誰かいる?
それが、誰かということだ…
普通に考えれば、それは、五井家の人間…
五井家の誰かということだ…
それは、一体誰?
私は、考えた…
諏訪野伸明…
諏訪野昭子…
諏訪野リン…
諏訪野和子…
菊池リン…
とにかく、ありとあらゆる五井家の人間の名前を脳裏に浮かべた…
誰だか、さっぱりわからないからだ…
諏訪野伸明たちは、疑いたくないが、リストから消すことはできなかった…
なぜなら、彼もまた五井一族だからだ…
私が、そんなことを、考えてると、
「…寿さんって、ホント、面白いですね…」
と、傍らの佐藤ナナが言った…
…面白い?…
…どういう意味だろ?…
私は、思った…
だから、
「…佐藤さん…私が面白いって、一体?…」
と、聞いた…
「…寿綾乃…自分が、いる立ち位置に最後まで、気付かないんだもの?…」
「…立ち位置?…」
と、思わず、呟いて、絶句した…
一体、この佐藤ナナは、なにを、言いだすんだろう?
いや、
そもそも、この佐藤ナナの正体は?
私の頭の中で、そんな疑問が、めまぐるしく回転した…




