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氷の令嬢と隣の空白

 

 私、神宮寺鳴(じんぐうじなる)の朝は、泥の中を泳ぐような不快感から始まる。


 お抱え運転手が運転する最高級車の後部座席で、私は腰まで届く漆黒の髪を指先で弄っていた。窓の外を歩く学生たちは、一見すれば爽やかな青春を謳歌しているように見える。けれど、私の耳には届いてしまうのだ。彼らが心の奥底に隠し、決して口には出さない「本音の毒」が。

「お嬢様、学園に到着いたしました」


 恭しくドアを開ける運転手。だが、私の脳内には彼のどす黒い思念が直接流れ込んでくる。


(……チッ、今日もこの高慢なガキの送り迎えかよ。早く降ろして、パチンコ屋の開店に並びてえな。昨日の負けを神宮寺の給料で補填してやるよ)


 私は何も言わず、ただ冷たく一瞥して車を降りた。

 これが私の日常。生まれつき人の思考を読み取ってしまうサトリの力。


 それはギフトなどではない。全人類が隠し持っている醜悪な裏側を無理やり覗かされる、最悪の呪いだ。


 私立聖マルタ学園。富裕層の子女が集まるその学び舎は、私にとって世界で最も騒がしく、汚い場所だった。


 校門をくぐった瞬間、全方位から見えない濁流が押し寄せてくる。


「おはよう、神宮寺さん。今日も綺麗ね」


(……ちっ、神宮寺かよ。愛想ねえな。つーか、その髪、手入れにいくらかけてんだよ、ムカつくなあ)


 笑顔で話しかけてくる女子生徒。その裏側にあるのは、浅ましい金への執着と、矮小な嫉妬。


「神宮寺さん、そのブローチ素敵ね! 私とお揃いにしない?」


(こいつのセンス、おばあちゃんみたい。わざと安物を勧めて、格を下げてやろうかしら。……早く落ちぶれればいいのに)


 友達を装って擦り寄ってくる女子生徒。その裏側にあるのは、吐き気がするほどの殺意と劣等感。


 私は、誰とも目を合わせない。誰の言葉にも心を開かない。


 耳を塞いでも無駄だ。サトリの力は鼓膜を通さず、脳に直接、本音のヘドロを流し込んでくる。


 私にできるのは、ただ冷徹な「氷の令嬢」を演じ続けることだけ。腰まである長い髪をカーテンのように広げ、絶対零度の孤独の中に閉じこもることで、どうにか正気を保っていた。


(……うるさい。みんな、黙ってよ)


 教室の自席に座り、私は机を見つめた。私の周囲には、私を崇拝するフリをしながら、その実、私の失脚を願う悪意のオーケストラが鳴り響いている。


 その時だった。


「おーっす、鳴ちゃん! おっはよー!!」


 一陣の突風と共に、その男は現れた。

 神道鳴海(しんどうなるみ)。私の隣の席に座る、この学園には珍しい、ただの能天気な一般家庭の男子だ。

 私は無意識に身構えた。サトリである以上、近寄ってくる男子は皆、同じ不純なノイズを抱えている。


(神宮寺の隣、ラッキー。今日もいい匂い。いつかワンチャン、この美少女を……)


 そんな下卑た思考を覚悟し、私は氷の視線を向けようとした。

 だが。

(…………?)

 静かだ。


 鳴海が私の隣にドカッと座った瞬間、耳の奥を刺していた雑音が、霧が晴れるように消え去った。


 いや、消えたのではない。

 彼の脳内から放たれるあまりにも純粋で、あまりにも密度が低すぎる思念が、周囲のドロドロした本音をすべて吸収し、真っ白な霧のように包み込んでいるのだ。


 私は、自分のサトリとしての本能を疑った。

 (こいつ、さては何か高等な精神防御でもしているのか?)

 私は神経を研ぎ澄ませ、彼の心の奥底へ、深く、深くダイブしてみた。

(……………。)

 何も聞こえない。


 無念、無想。あるいは完全なる空白。

 彼の脳内は、まるで夏の終わりの入道雲のように白く、空っぽだった。

 だが、その沈黙を破り、一筋の光のような本音が脳内に差し込んできた。


(ピーン!!)

「(……わあ。鳴ちゃんの髪、今日もつやつや。夜の海。綺麗。……海。泳ぎたい。……カニ。カニになりたい。チョキチョキ。)」

「…カニ」


 私の脳内に、楽しそうに砂浜でハサミを動かし、泡を吹いている一匹のカニのイメージが、鮮明に流れ込んできた。

 バカだ。


 学園一の美少女である私を目の前にして、こいつの脳内はカニになりたいという幼稚園児以下の願望だけで完結している。だが、その瞬間。

 私の心拍数は、別の意味で跳ね上がった。

(静か。すごく、心地よい…)


 他の生徒たちの「死ねばいいのに」「金よこせ」といった殺伐とした、重苦しい雑音が、鳴海が発する「カニ」という名の、あまりにも軽やかで純白なノイズに完全に掻き消されている。


 私にとって、それは何物にも代えがたい救いだった。


「神道くん。私、あなたのことを『鳴ちゃん』と呼ぶ許可を出した覚えはないのだけれど」

 私は、わざと冷たく言い放った。サトリである私にとって、彼が今の言葉を受けてどう動揺するか、その裏が見たかった。ほんの少しだけ、この静寂を独占したいという歪んだ欲求が芽生えていた。


「えーっ、いいじゃん! 同じ名前に『鳴』が入ってる『鳴鳴コンビ』だろ? 俺たち、前世で双子だったかもしれないぜ!」


 彼は屈託なく笑う。だが、サトリの耳にはその言葉の裏側が筒抜けだ。


(ピーン!!)

「鳴ちゃん、怒った。んー眉間にシワ。シワシワ。梅干し。おじいちゃんの家の。美味しかった。また食べたいなあ。」


 双子だなんて嘘をつきながら、脳内は一瞬で梅干しなの!?


 もう、ツッコミが追いつかない。

 彼が私のシワを見て「怒ってて怖いな」と思うのではなく、梅干し思い出して美味しそうだなという、常人には理解できないレベルのポジティブに変換するそのピュアさが、私の絶対零度の壁を、じわじわと溶かしていく。


 卑怯だわ、神道 鳴海


 そんな私たちの様子を、少し離れた席から心配そうに見つめている視線があった。


「鳴ちゃん、大丈夫? また顔色が悪いみたいだけど……」


 白雪詩織(しらゆきしおり)


 この学園で、私が唯一「友人」と呼べる少女だ。私は彼女にサトリの力を向ける。

(鳴ちゃん、今日も綺麗だけど、なんだか辛そう。温かいココアでも淹れてあげたら、元気出るかな?)


 詩織の思考には、澱みがない。嫉妬も、打算も、裏側もない。

 彼女は私の能力を知らない。ただ純粋に私を心配している。


 私は、鳴海の「無」と、詩織の「善」に挟まれることで、ようやく人としての輪郭を保っていられた。


「……大丈夫よ、詩織。少し、空気が悪いだけ」


 私は、わざと鳴海の方へ体を寄せた。

 そして、私の能力には、まだ誰にも教えていない秘密のルールがある。

 物理的に接触すると、相手の思考がより鮮明に流れ込む。

 私は、机の下で、そっと神道の制服の袖を指先で掴んだ。

 ギュッ。

 その瞬間、接触ルールが発動する。

 ――ッ!!

 私の視界が、一気に「鳴海色」に染まった。


 今まで静寂だと思っていた彼の脳内は、接触した途端、凄まじい解像度の映像となって私の脳に叩き込まれる。

(ズンチャッ! ズンチャッ! ズンチャッ!)

「ホットケーキ!! バター!! じゅるり!! 黄金の海!! 溺れる!! 俺、バターになる!!」

(うるさーーーーい!!!)


 私は思わず手を離した。

 静寂を求めて触れたはずなのに、そこには「ホットケーキのバターになりたい男の情熱(フルCG)」が爆音で流れていたのだ。


「うわっ!? 鳴ちゃん、どうしたの? 急に袖掴んで、パッと離して……。そんなに俺の服、ホットケーキの匂いした?」


「…バカ。大バカよ、あなたは」


 私は顔を真っ赤にして、腰まである髪で顔を隠した。

 触れると、あんなにも「バカの深淵」が直接流れ込んでくるなんて

 でも。

 バターになることを本気で夢見ている彼には、やはり悪意の欠片もなかった。


「…ねえ、神道くん」

「ん? なあに、鳴ちゃん」

「明日も、私の隣にいなさい。これは命令よ」

 私は彼の方を見ずに、傲慢な口調で、けれど切実な思いを込めて言った。


「えーっ、命令!? 鳴ちゃん、女王様みたいでカッケー! 了解でーす!」

「わあい! 明日も鳴ちゃんの隣! ん?待てよ…隣ってことは、俺、もう一人前の鳴ちゃん守護騎士なのかなあ! よーし、明日は鎧を着てこようかなあ!」

(鎧なんて着てきたら、即刻退学よ、このバカ)


 私は溜息を吐きながら、けれど、少しだけ微笑んだ。

 世界一うるさい教室で。

 サトリの令嬢は、自分だけに許されたホットケーキ味の静寂に溺れながら、このバカを誰にも渡したくないと、独占欲の芽生えを感じていた


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