あの街へ
1
三鷹の部屋は、妙に静かだった。
直人はクローゼットを開け、スーツを見つめる。
ネクタイの結び目。
擦り切れかけた革靴。
会議室の蛍光灯の白さ。
健一の顔。
すべてがスーツに染みついている気がする。
「少しだけ帰る」
そう決めたはずなのに、荷物をまとめる手が止まる。
逃げなのではないか。
負けたのではないか。
社会からの脱落ではないか。
そんな声が、内側から湧く。
「終わりじゃない」
そう言い聞かせるように呟く。
リュックに私服とノートパソコン、数冊の本を詰め込んだ。
この街は大好きだ。
井の頭公園の緑も、静かな住宅街も。
だが、今は心が限界を迎えてしまった。
鍵を回す。
金属音がひどく重く感じる。
「また戻ってくる」
誰にともなく呟く。
その言葉は、祈りに近かった。
2
総武線に乗る。
新宿に近づくにつれて胸がざわつく。
反射的に、あの会議室を思い出す。
だが電車は構わず東へ進む。
新宿を通過すると徐々に落ち着きを取り戻す。
総武線の車両はやがて千葉駅のホームへと滑り込む。
車内アナウンスが淡々と千葉駅への到着を告げる。
ドアが開くと人の波に押されるようにホームへ降り立つ。
スーツ姿の会社員、学生、買い物袋を提げた高齢の女性。
それぞれの生活が交差しながら流れていく。
外房線のホームへ降りると、空気が一段と静かになった。
停車している車両に乗り込み、発車ベルが鳴るのを聞く。
ゆっくりと動き出す列車。
ビル群が遠ざかり、やがて景色は低い家並みへと変わっていく。
線路は実家がある町に続いている。
逃げるためではなく、立て直すため。
直人は目を閉じ、揺れに身を委ねた。
3
最寄り駅のホームに降り立った瞬間、潮の匂いが鼻をくすぐる。
東京の空気とは違う。
見慣れた商店街、古い看板。
駅から実家までの道をゆっくりと地面を踏みしめながら歩く。
実家のインターホンを押すとすぐに玄関のドアが開いた。
痩せた息子の姿を見ながら、「おかえり」と目を潤ませる母。
「ただいま」
リビングには父と妹がいた。
壊れ物を扱うような距離感を感じる。
「迷惑かけてごめん」
思わず口に出る。
父が首を振る。
「生きて帰ってきただけで十分だ」
その言葉に、涙が落ちる。
自分はそんなに追い詰められていたのか。
食卓につき、久しぶりの家庭の味を口にする。
温かさが胃に落ちる。
涙が出そうになるが、堪える。
「部屋はそのままにしてあるよ」
母の言葉に、直人は小さく頷く。
夜、ベッドに横になると、久しぶりに深い眠気が訪れた。
逃げ帰ったのではない。
立て直すための一歩だ。
そう、心の奥で繰り返す。
だが同時に、不安も消えない。
戻れるのだろうか。
再び三鷹の鍵を回す日を思い描きながら直人は目を閉じる。
遠くで波の音が響いていた。




