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砂浜の上の僕ら  作者: 蜜樹


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あの街へ

三鷹の部屋は、妙に静かだった。

直人はクローゼットを開け、スーツを見つめる。

ネクタイの結び目。

擦り切れかけた革靴。

会議室の蛍光灯の白さ。

健一の顔。

すべてがスーツに染みついている気がする。


「少しだけ帰る」

そう決めたはずなのに、荷物をまとめる手が止まる。

逃げなのではないか。

負けたのではないか。

社会からの脱落ではないか。

そんな声が、内側から湧く。

「終わりじゃない」

そう言い聞かせるように呟く。

リュックに私服とノートパソコン、数冊の本を詰め込んだ。


この街は大好きだ。

井の頭公園の緑も、静かな住宅街も。

だが、今は心が限界を迎えてしまった。

鍵を回す。

金属音がひどく重く感じる。

「また戻ってくる」

誰にともなく呟く。

その言葉は、祈りに近かった。


総武線に乗る。

新宿に近づくにつれて胸がざわつく。

反射的に、あの会議室を思い出す。

だが電車は構わず東へ進む。

新宿を通過すると徐々に落ち着きを取り戻す。

総武線の車両はやがて千葉駅のホームへと滑り込む。

車内アナウンスが淡々と千葉駅への到着を告げる。

ドアが開くと人の波に押されるようにホームへ降り立つ。

スーツ姿の会社員、学生、買い物袋を提げた高齢の女性。

それぞれの生活が交差しながら流れていく。

外房線のホームへ降りると、空気が一段と静かになった。

停車している車両に乗り込み、発車ベルが鳴るのを聞く。

ゆっくりと動き出す列車。

ビル群が遠ざかり、やがて景色は低い家並みへと変わっていく。

線路は実家がある町に続いている。

逃げるためではなく、立て直すため。

直人は目を閉じ、揺れに身を委ねた。 


最寄り駅のホームに降り立った瞬間、潮の匂いが鼻をくすぐる。

東京の空気とは違う。

見慣れた商店街、古い看板。

駅から実家までの道をゆっくりと地面を踏みしめながら歩く。

実家のインターホンを押すとすぐに玄関のドアが開いた。

痩せた息子の姿を見ながら、「おかえり」と目を潤ませる母。

「ただいま」

リビングには父と妹がいた。

壊れ物を扱うような距離感を感じる。

「迷惑かけてごめん」

思わず口に出る。

父が首を振る。

「生きて帰ってきただけで十分だ」

その言葉に、涙が落ちる。

自分はそんなに追い詰められていたのか。


食卓につき、久しぶりの家庭の味を口にする。

温かさが胃に落ちる。

涙が出そうになるが、堪える。

「部屋はそのままにしてあるよ」

母の言葉に、直人は小さく頷く。


夜、ベッドに横になると、久しぶりに深い眠気が訪れた。

逃げ帰ったのではない。

立て直すための一歩だ。

そう、心の奥で繰り返す。

だが同時に、不安も消えない。

戻れるのだろうか。

再び三鷹の鍵を回す日を思い描きながら直人は目を閉じる。

遠くで波の音が響いていた。

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