立ち止まる時
1
朝六時。
目は覚めているのに、身体が起き上がらない。
カーテンの隙間から朝の淡い光が差し込んでいる。
外では可燃ごみ回収のトラックの音が遠くで止まり、作業員の短い掛け声が聞こえる。
日常はきちんと進行している。
直人は布団の中で天井を見つめる。
昨日会社を休んだ。
胸の中央に、重たい石のような圧迫感がある。
呼吸は浅く、息を吸うたびに喉が乾く。
頭ははっきりしているのに、思考が進まない。
まるでエンジンのかからない車のようだ。
布団から出る決心をするのに一時間かかった。
床に足をつけた瞬間、立ちくらみ。
視界がわずかに揺れる。
キッチンで水を飲む。
水の冷たさがやけに現実的だ。
鏡を見ると目の下に薄い影がある。
髭も伸びている。
頭がくらくらする。
スマホを手に取り、「今日も体調が良くないためお休みさせてください」と文字を打ち、送信まで一気に済ませた。
「三鷹 心療内科」と検索。
いくつかの医院名が並ぶ。
口コミ、診療時間、初診予約の可否。
家から一番近くの心療内科に初診の予約を入れた。
2
午後二時、駅前は平日の昼間でも人が多い。
カフェのテラス席にはノートパソコンを広げる人、買い物袋を持つ高齢の夫婦、ベビーカーを押す母親。
自分だけが、社会の流れから少し外れた場所を歩いているのだという感覚が襲う。
心療内科に着き、受付で保険証を出す。
「初診ですね」と穏やかな声。
問診票には、眠り、食欲、気分の落ち込み、動悸、めまいの有無などが並ぶ。
一通りの記入を終える。
待合室の椅子に座り診察を待つ。
壁の時計の秒針がやけに大きく聞こえる。
周囲には数人の患者。
誰も目を合わせない。
それぞれが、それぞれの何かを抱えている。
名前が呼ばれるまでの時間がひどく長い。
一瞬、逃げ出したくなる衝動がよぎる。
だが、逃げても三鷹の六畳に戻るだけで何も変わらない。
やがて名前が呼ばれる。
立ち上がると、足がわずかに震えていた。
3
診察室は思ったより狭い。
机とパソコン、観葉植物が一つ。
医師は五十代ほどの穏やかな男性だった。
「どうされましたか?」
その問いに、言葉が詰まる。
どこから話せばいいのか分からない。
電車内で倒れかけたこと。
新宿の会議室での出来事。
感情が出てこないこと。
途切れ途切れに話す。
医師は遮らずに聞く。
健一のことは話せなかった。
「眠れていますか?」
「食欲は?」
「会社へ行くことを考えるとどうなりますか?」
会社を想像すると、胸が締めつけられる。
朝になると吐き気がする。
休むことへの罪悪感が強い。
医師はゆっくりと頷き、言った。
「適応障害の可能性が高いですね」
その言葉は、思ったよりも静かだった。
「今の環境から一度離れることが必要です。しばらく休職しましょう」
休職。
その二文字が、重くのしかかる。
中央線の朝。
新宿のビル群。
三鷹と新宿を往復する日々。
それを止める。
怖さがこみ上げる。
だが同時に、わずかな救いを感じる。
「診断書を書きますね」
「お願いします」
4
クリニックを出ると、外は夕方だった。
三鷹駅前の空は、薄い橙色に染まっている。
診断書の入った封筒を鞄に入れる。
紙一枚が妙に重く感じる。
玉川上水沿いを歩く。
水面に夕陽の光が反射している。
「休職」
その言葉を頭の中で繰り返す。
会社にどう伝えるのか。
家族には。
母は心配するだろう。
父や妹はどう思うだろう。
アパートに戻り、封筒を机に置く。
静かな部屋。
直人は床に座り、しばらく動かない。
涙がゆっくりと頬を伝う。
凍っていたものが、少しだけ溶けていくような涙だった。
外では中央線の走行音が遠くに聞こえる。
今日も明日も電車は変わらずに走り続けている。




