崩壊の自覚
1
ベンチの冷たさが、太もも越しにじわりと伝わる。
直人はホームの端に座り、うつむいたまま動けずにいた。
さっきまで立っていた車内のざわめきが、まだ耳の奥で反響している。
視界の白さは引いたが、身体の芯が抜け落ちたような感覚は残っている。
駅員がしゃがみ込み、穏やかな声で言う。
「少し休みましょう。無理しないで」
無理。
その言葉が、妙に引っかかる。
無理していたのかな。
自分なりに問題なくやっていたはずだった。
スマホを取り出す。
会社へ連絡を入れなければならない。
画面に映る社名。
指が震える。
「体調不良のため、本日お休みをいただきます。」
それだけの文章を打つのに、五分以上かかった。
送信ボタンを押した瞬間、胸が強く締めつけられた。
返信はすぐに来た。
「了解しました。ゆっくり休んでください。」
責める言葉はない。
やがて逆方向の電車がホームに来た。
いつもなら職場に着いている時間だ。
その逆方向の電車に乗り込んだ。
ドアが閉まり電車がゆっくりと動き出す。
窓の外に、新宿のビル群が遠ざかる。
ガラスに映る自分の顔は青白い。
三鷹へ戻るまでの時間は通常よりも長く感じた。
2
三鷹の空は、澄み切った青空であった。
ロータリーでは、保育園児の列が横断歩道を渡っている。
朝の通勤時間帯とは違う光景。
直人は人混みを避けるように歩く。
自分だけが、本来ここにいるべきではない時間に立っているような感覚がする。
玉川上水沿いのベンチに座る。
冷たい木の感触。
呼吸は落ち着いている。
だが胸の奥に空洞がある。
会議室。
課長の声。
「数字を並べるだけなら、誰でもできる。」
怒鳴られてはいない。
正論だった。
その時の健一の笑みは何だったのだろう?
直人は自分の両手を見る。
わずかに震えている。
3
アパートのドアを開けると、いつもの匂いがする。
社会人になってから、この部屋にこの時間にいるのは初めてだった。
カーテンを閉める。
部屋が薄暗くなる。
スーツのまま床に座り、壁にもたれる。
全身の力が抜ける。
昼間の住宅街の音が遠くから聞こえる。
郵便受けに何かが落ちる音。
子どもの笑い声。
社会は動いている。
新宿のオフィスもいつもと変わらず通常通りだろう。
自分だけが外れた。
その事実が、怖い。
床に寝転び目を閉じる。
今朝の電車が蘇る。
動かない中央線。
逃げ場のない車内。
心臓が早くなる。
直人はゆっくり息を吐く。
だが震えは止まらない。
そのとき、直人は初めて思う。
「病院に行くべきかもしれない。」
六畳の天井を見上げながら、
直人は静かに、自分が壊れていっていることを感じた。




