静かな摩耗
1
朝の三鷹駅の発車メロディ。
直人は今日も中央線快速に乗り込む。
最近、音が少し遠いように感じる。
車内アナウンスも、人の会話も、
まるで水の中で聞いているようにぼやける。
眠れていないわけではない。
三鷹のアパートで、夜は泥のように眠っている。
それでも朝になると、身体が重い。
新宿が近づくにつれ、胸の奥がじわりと固くなる。
今日も水槽の中に飛び込む時間だ。
2
新宿西口の高層ビル群は、今日も無機質に光っている。
ガラス張りの壁面に、自分の姿が映る。
無表情の顔。
エレベーターの中で同期と鉢合わせ。
週末の話題。
飲み会の話。
直人は相槌を打つ。
正しいタイミングでできているだろうか。
会話の内容は、頭に残らない。
デスクに座ると、モニターの白い光が目に刺さる。
数字、資料、メール。
昼休み、ビルの外に出る。
ビル風が強い。
スーツの裾が揺れる。
周囲はオフィス街。
この周りだけで何千人もの人がいる。
その一人ひとりが会社という水槽の中を泳いでいる。
この水槽にいる意味は?
その問いが、ふと浮かび、すぐに沈む。
3
午後の会議。
直人は資料作成を任されていた。
ミスはない。
数値も確認済み。
だが、プレゼンの途中、
課長が静かに口を挟んだ。
「で、佐藤君はどう考えてるの?」
一瞬、言葉が止まる。
どう考えている?
資料は完璧だ。
求められた情報も揃っている。
だが「自分の意見」は用意していない。
会議室の空気が止まる。
「数字を並べるだけなら、誰にでもできる」
課長の声は冷静だった。
怒鳴ってはいない。
周囲の視線が集まる。
健一は口元に笑みを浮かべていた。
直人の耳鳴りが強くなる。
「申し訳ありません」
それしか言えない。
会議は続く。
だが直人の中では、何かが崩れていた。
会議室を出ると、廊下が少し揺れて見えた。
窓の外は、絶え間ない交通。
クラクションの音が、妙に鋭い。
その日、小さな入力ミスをした。
たったそれだけで、心拍が異様に速くなる。
「壊るな。まだ大丈夫だ。」
4
帰宅は二十二時を過ぎていた。
三鷹の住宅街は静まり返っている。
遠くでは犬が吠えている。
アパートの部屋に入ると、蛍光灯の白い光が冷たい。
スーツを脱ぎ、床に寝そべる。
そのまま動けない。
冷蔵庫のモーター音。
時計の秒針。
突然、胸が締めつけられる。
理由は分からない。
呼吸が浅い。
「限界」
その言葉が脳裏に浮かぶ。
5
数日後の朝。
中央線が信号トラブルで止まった。
車内アナウンスが繰り返される。
車内は混み合い、ざわめきが広がる。
直人は立ったまま、つり革を握る。
動かない電車。
進めない身体。
突然、強いめまいが襲う。
視界が白くなる。
耳鳴り。
周囲の声が遠ざかる。
「ここで倒れたら、迷惑をかける」
その思考だけが、はっきりしている。
だが足に力が入らない。
誰かの「大丈夫ですか」という声。
肩に触れる手。
その瞬間、直人の中で何かが崩れた。
気がつくと、ホームのベンチに座っていた。
駅員と、見知らぬ会社員が隣にいる。
「少し休みましょう」
そう言われる。
新宿へ向かうはずの朝。
身体が拒否している。
スマホを取り出す。
会社に連絡しなければならない。
指が震える。
今日は会社に行けそうにない。




