透明な壁
1
四月一日。
職場は新宿。
直人は三鷹のアパートに引き続き住んでいて、乗り換えなしで通勤できる。
朝七時半。
三鷹駅のホームは、すでに人で埋まっていた。
オレンジ色の中央線快速の車体が滑り込む。
ドアが開いた瞬間、押し合う圧力。
身体と身体が触れ合う距離。
視線を上げる余地はない。
直人はつり革を握り、窓に映る自分をぼんやり見る。
三鷹から新宿まで約二十分。
短いはずなのに、長い。
吉祥寺、荻窪、中野。
駅名が流れるたび、街の色が変わる。
電車はやがて巨大なターミナルへ吸い込まれていく。
新宿駅の改札を抜けた瞬間、直人は無意識に背筋を伸ばした。
人の波が四方から押し寄せる。
地下通路の湿った空気、絶え間ない足音。
朝の空気はまだ冷たい。
駅前は通勤客で溢れ、規則正しい足音がアスファルトを打っていた。
その流れの中に自分も紛れていることに、ほんのわずかな安心を覚える。
ここでは誰も自分の過去を知らない。
本社ビルは西口側、高層ビル群の一角だった。
ビルのガラスに朝日が反射する。
エレベーターに乗り込むスーツ姿の群れ。
全員が「どこかへ急いでいる顔」をしている。
エレベーターの鏡に映る自分の姿は、どこにでもいる新入社員の姿だ。
スーツの肩はまだ硬く、革靴は新品特有の光沢を放っている。
オフィスは整然としている。
白いデスク、整列したモニター。
入社式終了後、オリエンテーションで課長が言った。
「分からないことは遠慮なく聞いてね」
その言葉を聞いたとき、直人の胸の奥で何かが緩んだ。
怒鳴り声も、嘲笑もない。
ただ業務の役割があり、期待がある。
それは高校時代の曖昧で残酷な空気とはまるで違った。
午後、初めてデスクに座る。
モニターの白い光が顔を照らす。
キーボードを打つ音が規則的に響く。
誰にとっても直人はただの新人だ。
2
直人の指導係は田中健一。
爽やかで課内でも際立つ存在だった。
声が通り、説明は分かりやすく、誰に対しても笑顔を向ける。
直人にも気さくに話しかけた。
「直人くんはセンスあるね。丁寧だし」
その一言は、直人にとって思いがけない救いだった。
評価されることに慣れていない。
褒められると、反射的に身構えてしまう。
それでも素直に「ありがとうございます」と言った。
ある日の会議。
直人が作成した資料を健一が説明することがあった。
「すごくよくできた資料だね」と他部署からの声が聞こえた。
すると健一が、
「こちらの資料は私が作成しました」
ん?私が作成?
この言葉に違和感を感じたが、社会人はそういうものなのかと納得させた。
後日、会議で健一が説明している資料に誤字があった。
「今回の資料は新人が作成したので大目に見てください」
健一は軽い口調で言った。
周囲も軽く笑う。
今回、直人は資料の作成はしていない。
直人の耳には別の笑い声が重なっていた。
3
経理担当の及川順子。
背筋は常に真っ直ぐで、視線が鋭い。
「若い子は、確認が甘いのよね」
それは直人に向けられていると分かる言い方だった。
だが名指しはしない。
「誰にでも当てはまる一般論」の形で、直人を指摘する。
書類の返却時、溜息とともに渡される書類には赤ペンで細かく修正が入っている。
「よく確認してから提出してください」
直人は謝るが及川は無反応。
直人は書類を提出する前には過剰に確認するようになる。
だが、どんなに確認しても、どこかに必ず指摘が入る。
まるで直人に完璧を与えないかのように。
そして「不完全さ」は、周囲の評価を下げる材料になっていった。
4
入社三か月目。
直人は健一から「業務フローの無駄を見つけ、改善案をまとめる」という課題が出された。
三日後、直人は健一に書類を提出した。
「これは良い提案だな。今度の社内会議で取り上げてみよう。」
会議で自分の提案が取り上げられる。
直人は胸が熱くなった。
後日、社内の全体会議で健一がプレゼンした。
「⋯以上が私の提案となります」
健一の成果に変わっていた。
健一は悪びれた様子はない。
会議終了後、健一が笑顔で直人の肩を叩く。
「まあ、チームだからな」
直人の胸に空洞が広がった。
夜、アパートの天井を見つめながら思う。
期待するから、苦しくなる。
この職場は安全だと信じかけた自分がひどく愚かに思えた。
5
半年が過ぎる頃、直人の朝は変わっていた。
目覚ましが鳴る前に目が覚める。
胸がざわつく。
胃が重い。
理由は説明できない。
ただ、会社へ向かう足が重い。
駅のホームで、電車の音に混じって過去の記憶がよみがえる。
笑い声。
視線。
孤立。
会社では小さな違和感が積み重なる。
評価面談で課長が言った。
「田中君からの評価としても、佐藤君は慎重すぎるみたい。積極性が足りないかな。」
かつて褒められた「慎重さ」が、今は「消極的」と評価される。
健一のコメントが、評価シートに反映されているのだ。
いつかは認められる。
それまでは耐えるしかない。
だが、身体は正直だ。
帰宅後、何もする気が起きない。
食事も味がしない。
会社はまるで水槽だ。
四方八方に透明な壁が立ちはだかり、外に出ることは容易ではない。




