ここで生きていくために
1
浜辺で言葉を交わしてから直人の一日は目変化を帯びていた。
劇的な何かが起きたわけではない。
朝は変わらず味噌汁の匂いで始まり、
昼は父の手伝いをする
そして、夕方は浜辺を歩く。
海に近づくたび心のどこかにあった「緊張の芯」が柔らいでいるようだった。
2
その日、空は高く澄んでいた。
波は静かで、風も弱い。
直人が浜辺に着くと、拓海はすでに波打ち際に立っていた。
以前のような躊躇はない。
直人はそのまま歩き、数歩離れた場所に立つ。
「仕事はどう?」
直人は自分から尋ねてみた。
拓海は少し驚いた顔をしながら答える。
「まあ、ぼちぼちだな。現場はきついけど」
「続いてるんだ」
「辞める理由もないしな」
その言葉に、直人の胸が微かにざわつく。
辞める理由。
東京での自分を思い出す。
限界を感じ、退職を決意した夜。
健一の冷たい視線。
積み重なった疲労。
だが、その決断を今は後悔していない。
直人は静かに言う。
「俺は辞めたよ」
拓海がこちらを見る。
「東京の会社」
「そうか」
そこに、軽蔑はない。
ただ事実として受け止める目。
「また逃げたって思うよね」
自分でも意外な問いだった。
拓海はすぐに首を振る。
「そんなこと思わねえよ」
直人は波を見る。
今は、ここに立っている。
それがすべてだと思える。
しばらく沈黙が続く。
だが、不快ではない。
風が、二人の間を通り抜ける。
拓海がぽつりと言う。
「俺さ、お前が東京行ったって聞いたとき、正直ムカついた」
直人は眉をわずかに動かす。
「なんで?」
「置いてかれた気がして」
意外な言葉だった。
「俺はこの町から出る勇気なかった。だから、お前が出ていったの、悔しかった」
直人は思い出していた。
中学生の頃、拓海と一緒にこの浜辺で語り合った日々を。
「あの頃の俺、強いふりしてた」
直人は静かに頷く。
強いふり。
それは自分も同じだったのかもしれない。
東京で無理を重ね、
平気な顔をして働いていた。
壊れる直前まで。
夕日がゆっくり沈み始める。
橙色の光が海を染める。
直人は小さく息を吐く。
「まだ拓海のしたこと全部許せるわけじゃない」
正直に言う。
拓海は頷く。
「分かってる」
「でも、拓海と話せる今があるのも良いなって思ってる」
それが今の精一杯だった。
拓海は何も言わず、ただ海を見る。
二人の影が並ぶ。
直人は思う。
この町に戻ることを選んだのは自分だ。
過去ごと、この場所を受け入れると決めたのも自分だ。
逃げ続ける人生ではない。
これから、ここで生きていく。
波が静かに寄せては返す。
その音は、ただ、繰り返す。
直人は胸の奥にある凪を感じる。
完全な癒しではない。
だが確かな前進。
「明日も穏やかだといいな」
拓海が言う。
直人は笑う。
「天気次第だね」
二人は並んで沈みゆく太陽を見送る。
それぞれ過去と向かい合う。




