旅立ち
1
リビングからは食器の触れ合う音が聞こえる。
和子が夕食の準備をしている。
父の耕一はどこか落ち着かない様子で新聞をめくっている。
美咲はテーブルに教科書を広げながら、時折こちらの様子をうかがっている。
「明日、早いんでしょう?」
和子はいつもより柔らかい声で話かける。
直人は「うん」とだけ答え、直人はリビングをあとにした。
自室の床に座りこむ。
部屋の壁には、中学時代の写真がまだ貼られたままだ。
そこに写る自分は笑っている。
その笑顔が、今では他人のように思える。
本当は、不安で仕方がない。
いじめのことも、拓海のことも、結局一度も話さなかった。
「いじめられていた」と認めることは、自分の弱さを確定させることのように思えた。
家族に知られれば、惨めさが固定される気がした。
2
出発前夜の食卓は、どこかぎこちなかった。
メニューは直人の好きな唐揚げ、スパゲティサラダ、コーンスープ。
だが、直人は味をほとんど感じていなかった。
「大学、楽しみだね」
美咲が明るく言う。
その言葉に、直人の胸はぞくりとする。
「別に」
思ったより強い口調が出る。
人の輪に入るのが怖い。
視線が怖い。
笑い声が怖い。
和子がフォローするように笑う。
「最初は誰だって緊張するわよ」
その優しさが、直人には重い。
心配されるほど、自分が欠陥品のように思えてくる。
食事が終わると、直人は早々に席を立った。
部屋のドアを閉めると、外の気配が遠くなる。
ベッドに横になり、天井を見つめる。
ここは安全だ。
だが、安全な場所にいる自分が、ひどく情けない。
翌日、早朝に地元を発った。
「行ってきます」
と玄関を出る際には家族みんな心配の表情で、直人の姿が見えなくなるまで見送っていた。
途中で振り返ると手を振っていたが、直人は振り返すことはできなかった。
今日、生まれ育った地元を離れる。
辛くて苦しい毎日、早くここから出たかった。
新居に向かう電車の中では、不安よりも檻から出られたような開放感に心が弾んだ。
3
直人のアパートは、三鷹市の住宅街にある。
二階建ての六畳一間、ユニットバス。
三鷹駅から南へ歩いて十二分。
春には玉川上水の桜が薄く水面を染める。
窓を開けると、隣の家のベランダが見える。
夜は電車の走行音が聞こえる。
直人にとって一人暮らしは、「誰にも気づかれずに消えていられる空間」だった。
4
授業初日、大教室の後方に座る。
周囲では新入生同士が連絡先を交換している。
笑い声が弾む。
直人は視線を落とす。
「話しかけられなければ、傷つかない。」
講義が終わればすぐ帰る。
「孤立ではない、自発的な孤独」だと自分に言い聞かせる。
夜、母から届いた「元気にしてる?大丈夫?」という短いメール。
返信は「大丈夫」。
嘘ではない。
5
大学四年間の時間はあっという間に過ぎていった。
授業はしっかり受け、成績良好。
大学に友人はほとんどいないが、そのためトラブルもない。
ゼミではある女学生から「佐藤君って何考えてるか分からない」と言われたある。
直人は笑ってごまかす。
他人に心を開かない。
それは直人の人間関係に対する防御反応であった。
一年の夏休みから始めたカフェでのバイトは四年間続けた。
シフトには可能な限り入り、店長からの信頼は厚かった。
同年代のバイトとは交流せず、黙々と仕事をこなし、勤務時間が終わればすぐに帰る。
実家には帰っていない。
夏休みも年末年始もバイトを入れ、大学もバイトも忙しくて帰れないと電話で話していた。
正直なところ、何も成長していない自分を家族に見せるのが怖かった。
就活では「慎重さ」が評価され、とある新宿に本社ビルがある会社からの内定をいただけた。
大学四年間、無難に乗り切った。
社会人となってからもこれまで通りやっていける。
新宿という大都会の中で社会に溶け込んでいこう。
淡い期待を胸に秘めて、直人は就活を終えた。
大学卒業の夜、ベッドのうえに横たわりながら振り返る。
この四年間、心はほとんど動かなかった。
笑いもせず、泣きもせず、怒りもせず、平坦だった。
友達がいなくても寂しくない。
友達なんていつかは離れていく。
だったら最初からいないほうが傷つかずに済む。
一瞬、あの顔が浮かんできたがすぐに振り払い、自分に言い聞かせる。
他人に心を開かない。
もうすぐ社会人になる。
再び新しい世界への旅立ちだ。




