新しい一歩
1
三鷹のアパートの退去日の朝は、驚くほど静かだった。
カーテンを外した窓から、やわらかな光が差し込んでいる。
家具を運び出したあとの六畳一間は、音がよく響いた。
スーツケースひとつと、段ボールが6箱。 それだけで、自分の数年間は収まってしまうのかと、直人は少し笑った。
ベッドや洗濯機、冷蔵庫等の家具はリサイクルショップに買い取ってもらった。
床に座り、壁を見上げる。
教室で浴びた視線。
机に残された落書き。
誰も助けてくれなかった時間。
あの頃、直人はただ思っていた。
「早くここから消えたい」
地元の海さえも息苦しく感じた。
そんなときにテレビで見る東京はまぶしかった。
ネオンが輝き、人が行き交い、そこには「自分の過去を何も知らない人たち」しかいない。
新宿の高層ビル群にも憧れていた。
あの場所で働けば、自分は別人になれると思った。
そして選んだ三鷹という街。
新宿に近く、それでいて少し静かなこの街。
駅前のロータリー。
玉川上水沿いの桜並木。
自転車で井の頭公園まで走った夕暮れ。
ベンチに座り、何も考えず空を見上げた。
あの頃の自分は、未来は無限に広がっていると信じていた。
就職先が新宿に決まった日。
「あの都会の中で働くんだ」
胸が高鳴った。
だが現実は、想像よりも厳しかった。
評価、競争、数字。
健一の冷たい視線。
駅前のコンビニの灯り。
アパートまでの静かな帰り道。
夜遅く三鷹駅に降り立つたびに、どこかほっとさせてくれる街だった。
布団に倒れ込み、天井を見つめた夜。
健一の言葉に胸を抉られ、それでも明日も会社に行こうと決めた朝。
荒波に飲み込まれないように必死に泳いだ。
この部屋で、何度も息継ぎをした。
直人は最後に部屋を見渡した。
「お世話になりました」
誰もいない部屋に向かって、そう言った。
ポケットから鍵を取り出す。
金属の冷たさが指先に伝わる。
鍵を返却し、アパートを出る。
外階段を一段一段降りるたび、胸の奥が少しずつ締めつけられる。
逃げるようにして来たこの街で、確かに生きていたんだ。
2
三鷹駅の改札を抜ける。
ICカードをタッチする音がやけに大きく感じる。
ホームに立つ。
総武線の黄色い車体が滑り込む。
ドアが開き、乗り込む。
窓の外に見慣れた景色が流れる。
胸の奥にじんわりとした切なさが広がった。
東京での生活が終わる。
すべてが過去になる。
だが、消えるわけではない。
三鷹で過ごした日々も、新宿での苦しみも、 すべてが自分の一部だ。
千葉駅に到着し、外房線に乗り換える。
蘇我駅からは車内は徐々に空いていく。
窓の外の景色はビルが減り、空が広がる。
やがて懐かしい駅名がアナウンスされる。
切なさと静かな高揚。
直人は荷物を手に立ち上がる。
海のあるこの街で、新しい一歩を踏み出す。
何をするのかまだ決まっていない。
それでも、怖さより期待の方が少しだけ大きい。
溺れる前にたどり着いた浜辺。
今度は息継ぎをしながら泳いでいきたい。




