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砂浜の上の僕ら  作者: 蜜樹


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長い引き潮

直人は帰宅後、すぐにノートパソコンを開く。

メールの新規作成画面。

件名を打つ指は、思ったより落ち着いていた。

件名:今後の進退について

そして本文にテンプレートを貼り付けた。

「熟考の末、一身上の都合により退職させていただきたく存じます。

これまで多くのご指導をいただき、誠にありがとうございました。」

送信ボタンの上で指が止まる。

本当にいいのか。

都会で積み上げた時間。

肩書き。

評価。

それらが一瞬、脳裏をよぎる。

だが次の瞬間、すぐにさっきの決意の波が押し寄せた。

直人は、送信をクリックした。

小さなクリック音。

それだけで、何かが終わり、何かが始まった。


夕方6時過ぎ、課長から返信が届く。

「明日、出勤後に会議室に来てください。」


翌日、会議室で課長に退職届とともに退職の意思を伝えた。

「佐藤君が決めたなら、それが最善だと思う」

直人は頭を下げる。

「じゃあ、来月末までの約一ヶ月間で引継ぎをよろしく頼むよ」

「はい」

引き止めも、劇的な言葉もない短いやり取り。

それで十分だった。


部署に戻り、課長から部署内のメンバーに退職のことが伝えられた。

一斉に視線が直人に集中する。

直人からも、

「この度、一身上の都合により退職させていただきます」

と申し出る。

空気が、わずかに止まった。

直人はまっすぐ前を見たまま言った。

もう迷いはない。

健一は腕を組み、小さな声でつぶやく。

「一身上の都合って便利な言葉だよな」

冷たい笑みを浮かべている。

「来月末までの一ヶ月間に引継ぎをしてもらう予定だから担当者はよろしく」

課長からの部署内への伝達事項は終了した。


すぐに健一から声をかけられる。

「評価が不満だった?」

直人は首を振る。

周りの視線が突き刺さる。

「途中で倒れたりしないでね。最後くらい、責任を果たしてもらわないと」

胸がきゅっと締まる。

直人はうなずいた。

「はい。最後までやり切ります」

健一はそれ以上何も言わなかった。

その沈黙が、妙に重かった。


引き継ぎ資料の作成は、想像以上に膨大だった。

顧客ごとの経緯、注意点、暗黙の了解、 過去の失敗例⋯

夜遅くまでパソコンに向かった。


ある日、健一が後ろから声をかけた。

「その資料、誰が読むの?」

「後任の山本さんです」

「じゃあもっと簡潔に。自己満足の説明はいらない」

自己満足の説明。

その言葉が刺さる。

直人は修正する。

ページを削り、言葉を削る。


翌日。

「削りすぎ。背景が分からない。これじゃ使えないよ」

周囲に聞こえる声量で言う。

小さな笑いが、どこかで起きた気がした。

直人はただ「申し訳ありません」と答える。


月末が近づくにつれ、日に日に直人に対する健一の当たりは強くなっていった。

ある夜。

ほとんど人がいなくなったオフィス。

直人は一人、データを整理していた。

そこへ健一が近づいてくる。

「まだやってるの?」

「引き継ぎの最終確認です」

健一は画面を見下ろす。

「真面目だよね。でもさ、真面目なだけじゃ足りないんだよ」

静かな声。

「結局、踏ん張れなかった。それが事実だよ、佐藤君」

胸が締めつけられる。

だが直人は、目をそらさなかった。

「そうかもしれません」

ただ受け止める。

直人は続ける。

健一は何も言わず、背を向けた。


最終出社日。

一ヶ月間、長かった。

何度も胸が締めつけられた。

だが逃げなかった。


挨拶を済ませ、社員証等を返却し、エレベーターに乗る。

オフィスの光景が細くなっていく。


健一の冷たい視線。

刺すような言葉。

それらは消えないだろう。

だが同時に、やり切ったという確かなものも残った。

溺れながら逃げたのではない。

泳ぎ切って、岸にたどり着いた。


本社ビルを出る。

空が高い。

肺いっぱいに空気を吸い込む。

長い引き潮。

次に寄せる波はきっと穏やかなことを願う。

直人は振り返らずに静かに歩き出した。

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