家族のいる浜辺
1
交差点の信号待ち。
目の前を、若い母親が小さな男の子の手を引いて渡っている。
男の子は転びそうになり、母親はすぐにしゃがみ込んだ。
「大丈夫?」と優しい声。
その光景が、突然、幼い頃の記憶を呼び戻した。
浜辺で転んだ自分。
膝をすりむき、泣きそうになったとき、
母は優しく微笑みながら砂を払ってくれた。
都会の交差点で、潮の匂いがした気がした。
帰りの電車の中、スマホが震えた。
妹からだ。
今、みんなで海に来てます!
写真が添付されている。
父が防波堤に腰を下ろし、
母がその隣に立っている。
妹の影が、長く砂の上に伸びている。
自分はどうしたいのだろう。
毎日都会の中で怯えながら、
荒波に飲まれないよう必死に泳ぎ続けてきた。
その時、ふと頭によぎった。
息継ぎせずに泳ぎ続けているといつかは溺れてしまう。
2
三鷹駅で降りたとき、
胸の中の迷いは、ほとんど消えていた。
アパートまでの道。
風が頬を打つ。
面談で言った言葉が、もう一度よみがえる。
「少し、考える時間をいただけますか?」
あのときは、まだ逃げ道を残していた。
だが今は違う。
自分が立ちたい浜辺はここではない。
競い合うための浜辺ではなく、
家族と並んで立てる浜辺だ。
母の背中が、これ以上小さくなる前に。
「おかえり」という声を電話越しではなく直接聞けるうちに。
その思いが、大きな波となって押し寄せる。
3
部屋に入ると、静寂が迎えた。
スーツを脱ぎ、ベッドに腰を下ろす。
もう一度、あの写真を見る。
そして、ゆっくりと息を吐いた。
「⋯帰ろう」
それは誰に向けたものでもない。
自分自身への宣言だった。
スマホを手に取り、母に電話をかける。
「もしもし。面談どうだった?」
少し間を置いて、続ける。
「辞めようかなって思う」
言葉は、驚くほど自然に出た。
「帰ってもいいかな?」
母は、静かに答える。
「うん。帰っておいで」
その瞬間、直人の中で、すべてが決まった。
帰り道で見た母と息子の姿。
妹から届いた海の写真。
小さくなった母の背中。
それらが重なり合い、
ひとつの大きな波となって、背中を押したのだ。
引いた波は、必ずまた寄せる。
次に寄せる波はきっと、
家族のいる浜辺へと打ち寄せる。




