波が引くとき
1
カーテンの隙間から差し込む光が、ゆっくりと角度を変える。
起きようとしてもどうにも身体が起き上がらない。
スマホが震える。
健一からだ。
「明日の定例会議の資料、佐藤君に作成してもらおうと思ってるからよろしく。」
既読をつけることが怖い。
心臓の音がうるさい。
呼吸が浅い。
指が震えながら、返信を打つ。
「申し訳ありません。体調が悪く、課長に連絡し、本日お休みをいただきました。」
送信。
すぐに既読になった。
昼過ぎ、健一から通知が届く。
「正直突然休まれると困る。社会人としての責任は持ってください」
スマホが手から落ちる。
床に当たる鈍い音。
「ごめんなさい」
涙が止まらない。
その時、母からの電話。
一瞬、出るのをためらったが、電話に出る。
「もしもし」
声が掠れる。
「直人?声、変だよ」
いつも通りの声。
柔らかい。
それだけで、涙が溢れる。
「ごめん⋯」
「どうしたの?」
「また、行けなくなっちゃった」
一瞬の沈黙。
「そっか⋯。海ね、今日は静かだよ」と母。
直人は目を閉じる。
九十九里浜のあの広い海を思い浮かべる。
「波ってずっと寄せてるわけじゃないじゃない」
母は続ける。
「寄せては引いて、また次が来る」
その言葉が、胸の奥にゆっくりと沈みこむ。
電話を切ったあと、直人はベランダに出た。
三鷹の空は、薄い夕焼けに染まっている。
引く波の静けさを思い出す。
それは敗北ではない。
力を溜める時間。
2
夜、課長からメールが届く。
「体調は大丈夫ですか?現在の状況を踏まえ、明日、今後の働き方について話し合いの場を設けたいと思います。」
スマホを握る手に、汗が滲む。
怖い。
ベッドに横たわる。
恐怖は消えない。
胸は重い。
その時、母の言葉を思い出す。
逃げるのではなく、引いている。
寄せる前の、静かな波の音が聞こえる気がした。




