砂浜を削る波
1
復職二日目の朝、三鷹の空は低く曇っていた。
目覚ましが鳴る前に目が覚める。
眠りは浅く、夢の中でも会社の廊下を歩いていた気がする。
白い蛍光灯の下、足音だけが響き、誰かに呼び止められる。
そんな夢だった。
直人は天井を見つめたまま、しばらく動けず母の弁当箱を思い出していた。
あの甘い卵焼きの味。
海苔の「だいじょうぶ」の文字。
そして「いつでも帰ってきてもいいからね」という一行。
胸の奥には、まだ温もりが残っている。
けれど、それとは別に、冷たい塊が沈んでいた。
今日も、行かなければならない。
布団から起き上がり、洗面所へ向かう。
鏡に映った自分の顔は、思っていたよりも疲れている。
「怖いけど⋯」
スーツに袖を通す。
ネクタイを結ぶ手がわずかに震える。
アパートを出ると、冷たい空気が肺に入り、少しだけ意識がはっきりする。
三鷹駅までの道を歩く。
通学中の高校生たちはテスト勉強の話で盛り上がっている。
イヤホンをした会社員は無表情で改札を抜ける。
みんなそれぞれ自分の朝を生きている。
直人は吊り革につかまりながら窓の外を眺めた。
流れる街並み。
同じ景色なのに、昨日より遠く感じる。
2
新宿駅に着くと、あの圧倒的な人の波が押し寄せる。
本社ビルに近づくにつれ、足取りが重くなる。
見慣れたフロア。
エレベーターの扉が開く。
一瞬、空気が止まった気がした。
「⋯おはようございます」
自分の声が、思っていたより小さい。
健一は振り向きもせず、「おはよう」とだけ言った。
その声には温度がない。
出勤後、及川に呼ばれた。
及川はデスクの書類を整理しながら、ちらりと視線を向ける。
「体調は、もう問題ないんですよね?」
淡々とした確認。
「はい。大丈夫です。」
ほぼ反射的に答える。
及川は小さく頷き、書類を一枚差し出した。
「こちら、休職期間中の業務進捗と、チームへの影響をまとめた資料です。念のため、目を通しておいてください」
紙を受け取る。
そこには、休職中に直人の担当だった案件の遅延、フォローに入った社員の残業時間、顧客からの問い合わせ件数が数字で並んでいた。
赤字が、目に刺さる。
「もちろん、会社としては療養を優先すべきと考えています。ただ⋯」
及川は一拍置いた。
「現実として、こういった影響があったことは事実ですので」
事実を述べているだけ。
ただ、その事務的な正しさが胸を痛みつける。
自席に戻ると健一が直人に言う。
「佐藤君が休んでる間、正直、きつかったよ」
口調は穏やかだが、目は笑っていない。
「チームってさ、一人抜けるだけで回らなくなるんだよな」
周囲の社員がキーボードを打つ音が、やけに大きく聞こえる。
「でも、戻ってきたからには、甘えずに仕事してもらわないと」
甘え。
その言葉が、胸に刺さる。
「はい。申し訳ございませんでした」
それしか言葉が出てこなかった。
3
午前中は、簡単なデータ入力を任された。
パソコンの画面を見つめながら、指を動かし数字を打ちこむ。
背後に、健一の気配を感じる。
「また倒れられても困るから焦らずやってよ」笑顔で肩を叩く。
午後、メールボックスを開くと、社内共有のスレッドが一つ目に入った。
件名:業務改善について
そこには健一の提案として、
「業務の属人化を防ぐため、担当を固定せず、複数人で共有する体制へ移行すべき」と書かれていた。
一見、正しい提案。
その末尾にこう付け加えてあった。
「特定の個人に依存する体制はリスクが高い。休職等の不測事態に備える必要がある」
名前は出ていない。
だが、誰のことかは明らかだった。
数名の社員が「賛成です」と返信している。
自分は、会社にとってのリスクなのだ。
4
夕方、健一に呼ばれる。
「ちょっといい?」
会議室。
ガラス張りの小さな部屋。
「佐藤君さ、昔から人間関係で問題抱えるタイプなんでしょ?」
唐突な言葉に、直人は固まる。
「⋯え?」
「及川から聞いた。高校のとき、いじめられてたんだって?」
心臓が止まるかと思った。
なぜ、それを?
健一は椅子にもたれながら続ける。
「俺さ、被害者意識強い奴、嫌いなんだよね」
声は低く冷たい。
「体調悪いのは仕方ない。でもさ、本気でやってるやつに迷惑かけてる自覚は持てよな」
直人の頭の中で、高校のグラウンドが蘇る。
あの日のざわめき。
背中に突き刺さる視線。
「⋯すみません」
健一は小さく息を吐いた。
「謝ってほしいわけじゃない。ちゃんとやれって言ってるだけ」
会議室を出たとき、足元が揺れた。
トイレに駆け込み、個室に閉じこもる。
冷たい壁に背を預ける。
呼吸が浅い。
被害者意識。
迷惑かけてる自覚。
頭の中で、言葉が反響する。
5
夜、アパートに戻る。
灯りをつけると、静かな部屋が迎える。
無気力にベッドに腰を下ろす。
胸の奥がじわじわと削られている。
健一の言葉は、正論の形をしている。
及川の態度も、会社としては間違っていない。
直人はうつむいたまま、拳を握る。
「⋯まだ、逃げない」
窓の外、夜風が吹く。
目を閉じれば、九十九里の波音が聞こえる気がした。
寄せては返す。
何度でも。
削られても、作り直させる砂浜。
直人はベッドに横たわる。
暗闇の中で、静かに涙がこぼれた。
「いつでも帰ってきてもいいからね」
帰る場所がある。
それだけが、かろうじて直人を繋ぎ止めていた。




