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砂浜の上の僕ら  作者: 蜜樹


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13/28

砂浜を削る波

復職二日目の朝、三鷹の空は低く曇っていた。

目覚ましが鳴る前に目が覚める。

眠りは浅く、夢の中でも会社の廊下を歩いていた気がする。

白い蛍光灯の下、足音だけが響き、誰かに呼び止められる。

そんな夢だった。

直人は天井を見つめたまま、しばらく動けず母の弁当箱を思い出していた。

あの甘い卵焼きの味。

海苔の「だいじょうぶ」の文字。

そして「いつでも帰ってきてもいいからね」という一行。

胸の奥には、まだ温もりが残っている。

けれど、それとは別に、冷たい塊が沈んでいた。

今日も、行かなければならない。


布団から起き上がり、洗面所へ向かう。

鏡に映った自分の顔は、思っていたよりも疲れている。

「怖いけど⋯」

スーツに袖を通す。

ネクタイを結ぶ手がわずかに震える。

アパートを出ると、冷たい空気が肺に入り、少しだけ意識がはっきりする。


三鷹駅までの道を歩く。

通学中の高校生たちはテスト勉強の話で盛り上がっている。

イヤホンをした会社員は無表情で改札を抜ける。

みんなそれぞれ自分の朝を生きている。


直人は吊り革につかまりながら窓の外を眺めた。

流れる街並み。

同じ景色なのに、昨日より遠く感じる。


新宿駅に着くと、あの圧倒的な人の波が押し寄せる。

本社ビルに近づくにつれ、足取りが重くなる。

見慣れたフロア。

エレベーターの扉が開く。

一瞬、空気が止まった気がした。

「⋯おはようございます」

自分の声が、思っていたより小さい。

健一は振り向きもせず、「おはよう」とだけ言った。

その声には温度がない。


出勤後、及川に呼ばれた。

及川はデスクの書類を整理しながら、ちらりと視線を向ける。

「体調は、もう問題ないんですよね?」

淡々とした確認。

「はい。大丈夫です。」

ほぼ反射的に答える。

及川は小さく頷き、書類を一枚差し出した。

「こちら、休職期間中の業務進捗と、チームへの影響をまとめた資料です。念のため、目を通しておいてください」

紙を受け取る。

そこには、休職中に直人の担当だった案件の遅延、フォローに入った社員の残業時間、顧客からの問い合わせ件数が数字で並んでいた。

赤字が、目に刺さる。

「もちろん、会社としては療養を優先すべきと考えています。ただ⋯」

及川は一拍置いた。

「現実として、こういった影響があったことは事実ですので」

事実を述べているだけ。

ただ、その事務的な正しさが胸を痛みつける。


自席に戻ると健一が直人に言う。

「佐藤君が休んでる間、正直、きつかったよ」

口調は穏やかだが、目は笑っていない。

「チームってさ、一人抜けるだけで回らなくなるんだよな」

周囲の社員がキーボードを打つ音が、やけに大きく聞こえる。

「でも、戻ってきたからには、甘えずに仕事してもらわないと」

甘え。

その言葉が、胸に刺さる。

「はい。申し訳ございませんでした」

それしか言葉が出てこなかった。


午前中は、簡単なデータ入力を任された。

パソコンの画面を見つめながら、指を動かし数字を打ちこむ。

背後に、健一の気配を感じる。

「また倒れられても困るから焦らずやってよ」笑顔で肩を叩く。


午後、メールボックスを開くと、社内共有のスレッドが一つ目に入った。

件名:業務改善について

そこには健一の提案として、

「業務の属人化を防ぐため、担当を固定せず、複数人で共有する体制へ移行すべき」と書かれていた。

一見、正しい提案。

その末尾にこう付け加えてあった。

「特定の個人に依存する体制はリスクが高い。休職等の不測事態に備える必要がある」

名前は出ていない。

だが、誰のことかは明らかだった。

数名の社員が「賛成です」と返信している。

自分は、会社にとってのリスクなのだ。


夕方、健一に呼ばれる。

「ちょっといい?」

会議室。

ガラス張りの小さな部屋。

「佐藤君さ、昔から人間関係で問題抱えるタイプなんでしょ?」

唐突な言葉に、直人は固まる。

「⋯え?」

「及川から聞いた。高校のとき、いじめられてたんだって?」

心臓が止まるかと思った。

なぜ、それを?

健一は椅子にもたれながら続ける。

「俺さ、被害者意識強い奴、嫌いなんだよね」

声は低く冷たい。

「体調悪いのは仕方ない。でもさ、本気でやってるやつに迷惑かけてる自覚は持てよな」

直人の頭の中で、高校のグラウンドが蘇る。

あの日のざわめき。

背中に突き刺さる視線。

「⋯すみません」

健一は小さく息を吐いた。

「謝ってほしいわけじゃない。ちゃんとやれって言ってるだけ」


会議室を出たとき、足元が揺れた。

トイレに駆け込み、個室に閉じこもる。

冷たい壁に背を預ける。

呼吸が浅い。

被害者意識。

迷惑かけてる自覚。

頭の中で、言葉が反響する。


夜、アパートに戻る。

灯りをつけると、静かな部屋が迎える。

無気力にベッドに腰を下ろす。

胸の奥がじわじわと削られている。

健一の言葉は、正論の形をしている。

及川の態度も、会社としては間違っていない。

直人はうつむいたまま、拳を握る。

「⋯まだ、逃げない」

窓の外、夜風が吹く。

目を閉じれば、九十九里の波音が聞こえる気がした。

寄せては返す。

何度でも。

削られても、作り直させる砂浜。

直人はベッドに横たわる。

暗闇の中で、静かに涙がこぼれた。

「いつでも帰ってきてもいいからね」

帰る場所がある。

それだけが、かろうじて直人を繋ぎ止めていた。


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