不穏な空気
1
実家のリビングに差し込む午後の光は、どこか淡く、時間の流れを遅くする。
直人はテーブルにノートパソコンを広げ、復帰に向けた報告書を入力していた。
人事から送られてきたフォーマットは、想像以上に細かい。
「現在の睡眠状況」
「対人関係における不安の有無」
「過去の精神的不調の経験」
カーソルが点滅する。
過去の精神的不調の経験。
直人は指を動かした。
「高校時代、いじめにより一時的に対人不安が強まった経験があります。」
その一文を打ち終えた瞬間、胸の奥がわずかに軋んだ。
封じていた箱を、自ら開けた感覚。
だが、隠したくはなかった。
送信ボタンを押す。
海の向こうから来た風が、カーテンを揺らした。
2
新宿の高層ビル。
経理部のフロアは静かだ。
キーボードの打鍵音と、プリンターの駆動音だけが規則的に響く。
及川はモニターを見つめていた。
復帰対象者のリスク評価資料。
通常、経理が深く関与する案件ではないが、近年、「労務リスクとコスト管理の連携強化」が方針に掲げられ、経理にも情報が共有されるようになった。
合理的だ、と及川は思っている。
不安定な人材は、長期的にコストを生む。
画面をスクロールする。
「佐藤直人」
評価欄は空白が多い。
下にスクロールした時ある部分に目が止まる。
「高校時代、いじめにより一時的に対人不安が強まった経験があります。」
及川は眉をわずかに動かした。
学生時代のいじめ。
現在の休職理由は「職場内の対人ストレス」。
点と点が、線になる。
及川は別ファイルを開き、査定用メモに一文を記す。
「対人ストレス既往あり。復帰後の配置に慎重検討要。」
それは排除の宣告ではない。
ただの「注意喚起」だ。
3
数日後、健一が経理フロアを訪れた。
「ちょっと時間いい?」
柔らかい声。
だが目は笑っていない。
「佐藤君の件の資料見た?」
及川は頷く。
「リスク管理上、復帰後の配置は再考が妥当かな」
健一は小さく息を吐く。
「正直さ、チームも今ギリギリなんだよ。戻ってきてまた不安定になられても困る」
困る。
その言葉の主語は曖昧だ。
「本人のためにも、負荷の低い部署のほうがいいかもしれないよね」
健一はそう言いながら、直人の担当案件一覧を机に置く。
赤字で書き込みがある。
「この案件はもう他に振った。こっちも引き継ぎ済み」
つまり、居場所は削られている。
及川は資料を閉じる。
「数字上も、そのほうが合理的」
二人の会話に、怒気はない。
あるのは整然とした論理だけ。
4
その頃、直人は自分の部屋で天井を見つめていた。
返信が届いている。
「復帰計画について、改めて詳細な面談を設定したいと思います。」
文面は丁寧だ。
だが、胸がざわつく。
自分は正直に書いた。
隠さなかった。
それが正しかったのかどうか、分からない。
波の音がかすかに聞こえる。
海は変わらずそこにある。
新宿のビルの中では、静かに何かが動き始めている。




