強さの継承と覚悟の芽生え
雨上がりの校舎裏。
ジャージ事件から三日目だった。
「……私の心配じゃなくて、欲望で敷いたの? 最低」
早矢の言葉は、頭ではなく、胸の奥を直撃した。
「そういうとこ、ほんと、最低だから」
凌は言い返さなかった。
言えなかった。ほんとうのことだったから。
早矢はそれ以上、何も言わず、足音だけを残して去っていった。
その日から、ふたりの間には空気の層ができた。
教室でも、部活でも、目は合わない。話さなかった。
しかし、数日後の放課後。
「……ねぇ。日曜、空いてる?」
早矢が不意に声をかけてきた。
「え、あ、うん……?」
「実家、片付け手伝って。
誰も住んでないんだけど、いろいろ散らかっててさ。
母さんが一人でやるの大変だから」
凌は、早矢のその“ふつう”の頼み方に戸惑った。
「いいけど……俺でいいの?」
「……今でもあんたの顔見るとぶん殴りたいけど……
母さんが、“あの子、根は真面目で気が利くじゃない”ってさ」
その“けど”に、何か強く言葉にできない感情が詰まっていた。
「……ご飯くらいは奢る」
早矢はそれ以上、何も言わなかった。
日曜日。
雨が上がったばかりの、どこか湿った空気。
早矢の実家は、坂道の上にぽつんと建っていた。
古びた木造。玄関の引き戸がギィと音を立てる。
迎えた早矢の母は、気さくに言った。
「助かるわ〜、男の子一人いるだけで全然違うもんよ」
昭和の香りが残るその家には、あちこちに記憶の断片があった。
廊下の壁には、観光地の色あせたペナント。
押し入れの一角には、赤と白の置き薬の箱。
仏壇の隣には、祝日ごとに掲げていた国旗が丁寧に巻かれて立てかけられていた。
棚の上には、乾いたサボテンと、今はもう止まった柱時計。
室内には、時間が止まったような匂いがあった。
湿った畳、木材の酸味、そして、ほのかに石鹸の香り。
「あ、これ……タンスに石鹸入れてたの?」
凌が開けた引き出しの中に、小さな石鹸の箱が残っていた。
「うん。ばあちゃん、芳香剤ってのは身体に悪いとか言って、ずっとそれ」
ふたりで家中を掃除して回る。
途中、凌が写真立ての前で足を止めた。
「……これ、皇族?」
「うん。昔のやつ。じいちゃんが、“理想の家庭”って言って、毎年飾ってた」
皇室一家がテーブルを囲み、微笑み合っている。
「……なんか、逆に泣けるな」
早矢は少し肩をすくめた。
「たぶん、うちは、ああなれなかったから、
せめて写真だけでもって思ったんじゃない?」
静かな笑い声だけが写された一枚。
でもその横には、誰もいない今の居間が広がっていた。
早矢は、筋肉を惜しまずどんどん家具を運んでいく。
重いタンス、木箱、本の束。
その背中には、迷いもためらいもなかった。
凌は、言葉少なに後を追った。
先日のことが頭から離れず、何かを言おうとしても言えなかった。
だからせめてと、黙って動いた。
埃をかぶった家具を拭き、畳を剥がし、物を運ぶ。
「……こっちの棚、片付け終わったよ」
「うん、ありがと。……いや、ホント助かる。変態だけど、役に立つ」
少しだけ笑ったように聞こえた。
凌がふと、窓際に置かれた重厚な木の台に目を留めた。
「……これ、何?」
金色の装飾がかすかに残る黒い本体、艶のある天板。
足元には鉄の踏み板。
使い込まれた木の光沢が、やわらかな光に透けていた。
「足踏みミシン。ばあちゃんがずっと使ってた」
早矢は、少し懐かしそうに目を細める。
「使わないときは、私がここで勉強してた。
……なんか、落ち着いたんだよね。天板の木の匂いとか、ペダルの音とか」
凌は、そっとその台に手を置いた。
ひんやりとした木肌に、遠い記憶が染み込んでいるようだった。
微かに残る油の匂い、布と手の脂と、家の時間が混ざったにおいがした。
ふと凌が、タンスと壁の隙間に何かがあるのを見つけた。
「……これ、紙?」
取り出してみると、色褪せた画用紙に、クレヨンで描かれた祖母の似顔絵だった。
「……私、これ……描いたの、私だ」
早矢の声が、かすかに震えていた。
「忘れてた。小さい頃、ばあちゃんの誕生日に描いた……
でも、なんでここに……」
しばらく何も言わず、それをじっと見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「ここ、ばあちゃんが最後に寝てた部屋だ」
そのとき、ふわりと風が吹き抜けた。
タンスの裏から、ほんのり漂った匂い。
線香、畳、汗、そして、少しだけ……排泄物の、記憶。
祖母の晩年の「時」が、そこに凝縮されていた。
「……母さん、毎晩ここで世話してた」
早矢は、ゆっくりと座り込んだ。
「強くならなきゃって、忘れてた。
でも、ばあちゃんも、母さんも、ずっとここで頑張ってたんだよね……」
手に握られた似顔絵が、くしゃっと折れた。
凌の視線が、仏間の金縁の額に留まる。
「……これ、若いときのお父さん?」
「うん。自衛官になったばかりの頃。
じいちゃんがすごく誇りにしてて……写真、ずっとここに飾ってた」
写真の中の父は、迷いのないまなざしで真正面を見つめていた。
その凛とした視線が、まるで凌の心の中まで見抜いているように感じられた。
「そっか……」
写真の隣に立てかけられた国旗を見て、凌は静かに頷いた。
そこに漂う空気が、早矢の「強さの根」に触れているように感じた。
「……ありがとう、凌。あんた、やっぱすごいよ。
あんたの鼻、ほんと、変態だけど……ちゃんと、役に立つ」
凌は、息を呑んで、そっと言った。
「俺、今まで、自分のために嗅いでた。
でも……誰かの記憶の手がかりになるなら、
誰かが泣ける場所を見つけられるなら、
この嗅覚、使いたいと思った」
そのとき、早矢がはじめて、少しだけ笑った。
「……それなら、まあ、許す」
涙と石鹸の匂いが、ゆっくりと、部屋に溶けていった。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました!
『令和版 痛・セクスアリス~変態が追い求める匂いの奥に、生きている証があった~』は、ep.86をもって一旦の区切りとさせていただきます。
……が!
変態犬男の嗅覚は、まだまだ止まらない!
次なるシリーズ、まもなく出発!
\\タイトルドン!!//
『筋肉ゴリラ女武闘家と建設&消防志願双子剣士と妄想逞しい才女魔法使いが、嗅覚だけで世界を嗅ぎ分ける変態犬男に首輪をつけて冒険に出てみた!!』
(なっっっがいけど、読めばクセになる。嗅げばなおよし)
そう、この物語――
筋肉、重機、炎、魔法、そして匂いが交差する、
“五感で読む青春ファンタジー”に突入します!
・筋肉で殴り、
・剣とスコップとバールで道を切り拓き、
・妄想で世界の真理に辿りつき、
・嗅覚で真実を嗅ぎ当てる。
もう、世界救えるでしょこのメンバー。
前作のあいつらも全員再登場!
いろんな「匂い」に翻弄されながらも、仲間とともに“自分の強さ”を見つけていく物語。
変態は治らないけど、成長はする。
筋肉は裏切らないし、妄想は止まらない。
そんな物語を、あなたと一緒に、また始められたら嬉しいです!
新シリーズも、どうぞよろしくお願いします!!
ゆずりは ひあき(鼻を全開にして準備中)




