表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

84/86

欲望の匂い、信頼の温度

 芝生の上に、早矢が座り込んでいた。

 練習後の坂道ダッシュ。強がってたけど、足を少し引きずっていたのを、俺は見ていた。


「……大丈夫かよ」

 声をかけても、「平気」って即答。

 でも、ほんのわずかに肩が揺れていた。


 俺は黙って腰に巻いてたジャージを外し、彼女の後ろに敷いた。

「ほら、濡れてるから」

 そう言って、目を合わせずに立ち上がった。


 そのときは、まだ“心配”だった。

 そのつもりだった――ほんの、数分前までは。


 部室に戻って、脱いだジャージを手に取ったとき。

 指先に、微かな湿り気が残っていた。芝生と汗の匂い。それと、少しだけ、早矢の……。


(……ああ、まただ)


 鼻が勝手に布に近づいていた。

 ほんの一瞬だけ――嗅いだ。嗅いでしまった。


 だけど今回は、違った。

 前よりも、明確に、“欲望”があった。

 あの時の腰のライン。背中の温度。自分が敷いたその上に、彼女の体があったこと。


 それを想像したとき、頭のどこかが熱くなった。


(……くそ、俺……)


 目を閉じて、ジャージを胸に引き寄せた――そのときだった。


「……なにしてんの、滝川」


 心臓が凍った。

 部室の戸が少しだけ開いていて、そこに、早矢が立っていた。


 一瞬で言い訳を探した。でも、言葉にならなかった。

 何も、何一つ、できなかった。


「……私の、あれでしょ。それ、さっき敷いたやつ」

「私の汗、嗅いでたよね」


 早矢の声は、驚くほど冷たかった。

 怒鳴るでもなく、ただ、事実を確認するように。


「……ち、違……」

 言いかけたけど、自分でも空しかった。


「……私の心配じゃなくて、欲望満たすために敷いたの? 」

「そういうとこ、ほんと最低」

「あんた、前は“私が痛そうだったから”って言ってくれたのに」

「それすら嘘だったんだって、思いたくない」


 そこまで言って、彼女は小さく笑った。

 笑ったというより、笑わずにはいられなかったような顔だった。


「最低。ほんと最低」


 早矢は、それだけ言って、靴音を響かせて去っていった。

 ジャージだけが、俺の手の中に残った。


 それは、もう“優しさの証”じゃなかった。

 ただの、自分の未熟さを包んだ、布の塊だった。


「……くそ……」


 俺は、まだ人の気持ちの匂いが嗅げない。

 いや、わかってたのに、嗅がなかった。


 それが、信頼を裏切るってことだと、

 ようやく、知った。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ