白布の光、真帆の夜
期末テスト前夜。
真帆の部屋には、ノートの紙が擦れる音と、蛍光灯の微かな唸り声だけが満ちていた。
赤ペンのインクが、まるで不安を塗りつぶすようにノートの上を走る。
いくら勉強しても、心はざわついたまま。
努力だけでは届かない何かが、この世界にはある。
そう思うたびに、胸の奥が少しずつ冷たくなる。
──22時。
いつものようにラジオのスイッチを入れる。
NHKラジオ第2、気象通報の時間だ。
「アリューシャン海峡の東70キロに低気圧があり…」
落ち着いた声が、世界の輪郭をなぞる。
ルドナヤプリスタニ、テチューヘ、渤海──
未知の地名に耳を傾けることで、真帆はほんの少しだけ現実から遠ざかれる。
けれど今夜は、それでも胸のざわめきが消えなかった。
──22時54分。
真帆はテレビのリモコンを手に取る。
画面に映し出されたのは、風にたゆたう白い布。
柔らかい光に包まれ、静かに揺れるその映像は、何かを清めるようにも見えた。
報道番組の始まりとは思えない、祈りのようなオープニング。
それが好きだった。
家庭の空気が不安定で、心の居場所がなかった時期。
その頃から、真帆はこの光にすがるように画面を見つめていた。
何も言わなくても、何もできなくても、
ただこの布の光の中に身を浸すことで、ほんの少し安心できた。
そして、あの人の声が届く。
「こんばんは、筑紫哲也です。」
それだけで、世界が整っていくような気がした。
しかし画面の中で報じられるのは、容赦ない現実だ。
爆撃で崩れた建物、泣き叫ぶ子どもたち、
「旧ユーゴスラビア・ボスニア内戦」「民族浄化」──
真帆と同じ年頃の少女が、廃墟の中で怯えている。
そこに充満するのは、生きている証としての命の匂いではない。
焼け焦げた鉄と火薬、血と土の混ざった匂い。
死がすぐそこにある世界。
それでも真帆は、画面を見つめ続ける。
遠い国の誰かの痛みに、自分の何かが確かに反応している。
知らない誰かを、想ってしまう心があることに、気づいてしまった。
筑紫哲也の語りが、夜の静寂に溶けていく。
「この世界には、希望もまた確かにあるんです。」
真帆は机の上の楽器ケースに、そっと目をやった。
音楽には、直接命を救う力はない。
でも、音楽を必要としている人は、きっと世界のどこかにいる。
だから私は、音を通して祈る。いつか、音が届くことを信じて。
それが、今私が吹奏楽に一途に取り組んでいる意味なのかもしれない。
──どうか、この世界のどこかで。
安心して夜を過ごせる場所が、生まれますように。
安心して、音楽に耳を傾けられる日が来ますように。
それは少女がただ一人で願うには、あまりにも大きすぎる祈りだった。
でも真帆は、あの光を信じた。
白布がやさしく揺れるその瞬間を、心の奥に灯として持ち続けた。
「ねぇ、先生。音楽って、
誰かにとっての“光”になれるんだよ。」
真帆のつぶやきは、夜の闇の中へ、そっと溶けていった。




