『渤海、想像の海へ』 ー三ツ石真帆、十五歳の期末前夜ー
期末テスト三日前。
さすがに焦りを感じた私は、部屋の机にかじりついて英語の問題集を開いていた。
けれど、頭は回らない。
文字がすべて、トロンボーンの譜面に見えてくる。
「名詞」「動詞」……そんなのより、「ハ長調」「四分音符」のほうがまだ読みやすい。
私は小さくため息をついて、ラジオをポチっとつけた。
NHKラジオ第2。夜10時の気象通報。
――この声、この抑揚、この淡々とした「世界の読み上げ」。
なぜだろう、テスト前の現実よりずっと魅力的に思えてしまう。
「アリューシャン海峡の東、70kmに低気圧……」
(うん、それはいつもの。むしろ安心する響き)
「渤海では、気圧の谷が停滞……」
……渤海?
その二文字が、耳に刺さった。
私は鉛筆を置き、ペン先でノートの余白に「渤海」と書いてみた。
なんて、深くて、柔らかくて、ちょっと艶のある響きなんだろう。
ぼっかい。
日本語じゃない。中国? 韓国の近く?
地図帳を開いて探してみる。…あった。
でも、地図の上じゃ、ただの水色の小さな海。
私は立ち上がり、カーテンをめくって夜空を見た。
真っ暗なはずなのに、星の奥には見える気がした。渤海の夜明け。
きっとそこには、知らない音があって。
知らない匂いがして。
聞いたことのない言葉が、朝市の屋台から響いてくる。
私はその想像の中で、
いつか「渤海に吹く風を、トランペットで吹いてみたい」と思った。
誰にも言ってない。
言っても、「期末テストが先でしょ」って言われるから。
でもね。
世界って、知らない名前を一つ覚えるだけで、こんなにも広がるんだ。
私は、想像の中で渤海を歩いた。
夕暮れの漁村で、名前のない風と話した。
そして静かに思った。
「音楽も、勉強も、知らない世界とつながるためのものなんだ」
だからもう少しだけ、頑張ってみよう。
この夜を越えて。
“渤海”のその先にある、自分だけの未来に出会うために。
~渤海ってどこ?~
物語中で真帆が出会った「渤海」は、中国の東北部に位置する海の名前です。
中国の河北省・天津・山東半島などに囲まれた内海のような場所で、黄海と接続しています。
名前の由来は古代王朝の「渤海国」とも関係があるとも言われ、歴史的にも文化的にも奥深いエリアです。
ちなみに、気象通報で「渤海」と聞くときは、台風や低気圧の進路として重要な観測ポイントになっていることが多いです。
でも、ラジオでその言葉を初めて聞いた中学生が、どんな想像をふくらませるかは――
想像力という“心の天気図”しだいなのかもしれませんね。




