剣月記 ―澪、まだ人のままで―
◤前書き◢
こんにちは、ゆずりはです。
この短編は、中島敦の名作『山月記』をベースにした現代オマージュ作品です。
私はこの作品が学生時代からずっと大好きで、今も折に触れて読み返しています。
■『山月記』ってどんな話?
唐の時代。主人公・李徴は、詩人としての理想と、現実の失敗に挟まれ、ついには虎へと変わってしまう男です。
久しぶりに旧友と再会した彼は、「なぜ自分が虎になったのか」という苦悩を静かに語ります。
“本当の自分”を認められなかったがゆえに、人としての姿を失ってしまった――そんな切ない独白です。
■この作品について
この物語では、現代の中学生・澪が国語の授業で『山月記』を読んだところから始まります。
「こんなのあるわけない」とバカにしていた澪自身が、剣道の稽古中、少しずつ“人でない何か”へと変わっていく感覚に飲み込まれていきます。
強さとは何か、人であるとはどういうことか。
あなた自身の中の“虎”とも、ぜひ重ねてみてください。
国語の授業で『山月記』を読んだ日、澪は思った。
――こんなこと、あるわけない。
詩人が虎になる? プライドと羞恥心で獣になる?
「そんなの、ただの甘えだよ」
澪は心の中でそう呟き、隣の早矢に聞こえないように小さく鼻で笑った。
剣道では、強さこそがすべて。
弱さは反省の材料であり、情けは捨てるべきものだ。
けれど、それからだった。
稽古のとき、澪の声が変わり始めた。
「メェエンッッ!!」
それは、もはや「声」ではなかった。
叫ぶでもなく、吠えるでもなく――唸っていた。
まるで獣が、喉の奥で唸るように。
澪の竹刀が空気を裂くたび、音が重く、湿っていた。
打突の瞬間、相手の汗や鼓動の匂いまでがはっきりと感じられる。
凌がぽつりと漏らした。
「澪……匂いが違う。血と、鉄と……肉の匂いが混ざってる」
澪には聞こえていなかった。
もう、人の言葉は遠かった。
勝ちたい。
もっと、強くなりたい。
声は、勝つための武器だ。ならば、より本能に近いほうがいい。
「ウオォォ……ッ!!」
咆哮が、道場を震わせた。
竹刀が振り下ろされ、相手の面が吹き飛び、誰かが叫んだ。
「止めろ! 澪、やめろ!」
けれど澪は止まらなかった。
その目に、人間の光はなかった。
そして次の瞬間――
がばっと布団の中で上半身を起こす。
視界がぐらつく。喉が熱い。全身に汗がまとわりついている。
夢、だったのか。
枕元に、玲央が座っていた。
髪が少し乱れていて、目元に不安が浮かんでいる。
「澪……大丈夫? すごいうなされてたよ。『勝たなきゃ、強くならなきゃ』って……」
澪は答えられなかった。
咆哮していた夢の感触が、まだ喉に残っている。
「……あれ、夢?」
玲央は少し笑って言った。
「ねぇ、澪。あたしたちって、剣道するために生きてるんだっけ? それとも、生きるために剣道してるんだっけ?」
意味はわからなかった。けれど、その言葉が、確かに自分を「人間」に戻してくれた。
外では、蝉が鳴いていた。
朝の光が、まだ人である澪の頬に、やさしく触れていた。
その翌日。
国語の教科書を開いた澪は、ふと朱線の引かれた『山月記』の一節に目が留まった。
「己の臆病な羞恥心が、己の尊大な自尊心と衝突し――」
昨日までは、その文の意味なんて気にもとめなかった。
「変な言い回し」「カッコつけすぎ」と思っていた。
でも今は、違った。
羞恥心――人に負けることが怖くて、弱いところを見せられなくて。
自尊心――誰よりも強くなりたくて、自分の価値を証明したくて。
澪の中にも、きっとその両方があった。
そのふたつがぶつかり合って、いつの間にか、言葉をなくしかけていた。
人としての声を捨ててまで、勝つことにこだわっていた。
強くなることだけが、自分を支える手段だと思っていた。
でも――
ページをめくる手を止めて、澪は教科書をそっと閉じた。
その静かな動作が、まるで自分自身を包みなおすような気がした。
「私は……」
誰にも聞こえないように、唇だけを動かす。
――私は、まだ人のままで、いたい。
そう思ったとき、喉の奥でやっと、言葉が“人の声”に戻ってくる感覚があった。
隣では、早矢が教科書の端を折っている。
その向こうで、凌がなぜかまた匂いを嗅ぐような仕草をして、にやりと笑った。
澪はため息をついて、手元の教科書で凌の鼻先を軽く押し戻した。
「……人の匂い、うるさい」
小さな声だったけど、それはまぎれもなく、人間の言葉だった。
この物語は、私ゆずりはが心から敬愛する中島敦の『山月記』への、小さなオマージュとして書きました。
「己の臆病な羞恥心が、己の尊大な自尊心と衝突し――」
学生時代、初めてこの一文を読んだとき、私はその言葉の意味がよくわかりませんでした。
けれど、大人になるにつれて、
そして創作を通してキャラクターたちの心に触れていくうちに、
この一文は、人が“自分でいられなくなる瞬間”を、痛いほど的確に表していると気づきました。
今回、主人公として描いた澪は、強さだけを信じて前に進もうとする少女です。
でもその強さの裏側には、誰にも負けたくないという自尊心と、
もし負けたときに見られるのが怖いという羞恥心が、確かにありました。
彼女が咆哮し、言葉を失いかけたのは、
まさにそのふたつが心の中でぶつかり合い、人としての輪郭を失いかけた瞬間だったのだと思います。
でも、誰かの言葉や匂い、そして“文学”が彼女を救った。
そういう物語にしたかった。
私たちは皆、日々の中で「虎になりそうな瞬間」を持っているかもしれません。
それでも――「私は、まだ人のままで、いたい」と願うことが、
人間であるための、いちばん大切な強さだと私は思います。
読んでくださって、本当にありがとうございました。
もしこの物語のどこかに、あなた自身の影が映っていたとしたら、それほど嬉しいことはありません。
――ゆずりは




