都合のいいAI扱いされる私が、やっと「人間」って言われた夜
「私は、都合のいいAIじゃない」
──その一言を、どうして昼のうちに言えなかったんだろう。
教室の隅で、プリントの束を抱えた真帆は、先生の机の前に立っていた。
放課後、誰もいなくなった音楽室。
窓の外から吹き込む風が、譜面をめくる音だけを運んできていた。
「すみません、課題……提出、間に合いませんでした」
声はよく通った。けれど、自分の中では何かがちょっとだけズレていた。
体はちゃんと謝っているのに、心のどこかが「私のせいじゃないのに」と言っている。
でも、その言葉は、どうしても飲み込んでしまう。
先生は「わかった」とだけ言って、次のプリントに視線を落とした。
怒られたわけじゃない。咎められたわけでもない。
それでも、教室にひとり取り残されたような、透明な気配が心に残った。
(返ってこなかったんだ。お願いしてたのに)
「ちょっとだけ見せて」と言われて、友達に渡した課題。
「すぐ返すから!」って、笑いながら持っていったその子は、
そのまま戻してはくれなかった。
声をかけようとしたけど、部活の打ち合わせで忙しそうな姿を見て、
「今じゃないよね」って、自分に言い聞かせて、何も言えなかった。
──結局、「ちゃんとやっていた自分」が、提出できなかった。
帰り道、風が制服の襟元に入り込んでくる。
真帆は少しだけそれを立てて、ゆっくりと坂道を下っていた。
「……なんで、言えなかったんだろ」
「返してって」
「今、自分の課題をやりたいって」
「……私も、疲れてるって」
言いたかった言葉は、ちゃんとあった。
でもそれを口にしたとき、相手がどんな顔をするかを、先に想像してしまった。
“冷たい”って思われたくなかった。
“真帆って、そういうとこあるよね”って、陰で言われたくなかった。
だから笑った。
「いいよー」って、いつもの調子で。
ほんとは、良くなんかないのに。
家に帰り、制服を脱いで、ベッドに倒れ込む。
部屋の隅には、静かに置かれたトランペットのケース。
それすらも、今日はやけに遠くに感じた。
(私だって、疲れてる。私だって、ちゃんとやりたかった)
顔を伏せると、シーツがひんやりしていて、
気づいたら目元に何かが流れていた。
なんとなくスマホを手に取り、LINEを開く。
履歴の上の方に、「佐々木 早矢」の名前。
(……ダメ元で、かけてみようかな)
少しだけ迷って、通話ボタンを押す。
呼び出し音が、1回、2回、3回──
『……もしもし? 真帆?』
(あ……出た)
『どしたの? こんな時間に。……てか、泣いてる?』
返ってきた早矢の声が、今夜の中でいちばん、人間らしくて、あたたかかった。
スマホ越しの沈黙。
どう返せばいいのか迷って、数秒が流れる。
『……うん、ちょっと、泣いてるかも』
声に出した瞬間、張りつめていたものがぷつんと切れた。
『今日ね……課題、出せなかったの。』
『貸したの。友達に。返ってこなくて。』
『だから、自分のも、出せなかった』
ぽろぽろと、言葉がこぼれていく。
早矢は、何も言わず、ただ聞いてくれていた。
『……先生には謝ったよ。ちゃんと。
でも、なんか……違った。
私が悪いみたいになってて。
そうじゃないのに。ちゃんとやってたのに……』
スマホの向こうで、早矢が小さく息を吸う音が聞こえた。
『それ……返してって、ちゃんと言った?』
『……言えなかった。だって、その子、忙しそうで……』
『真帆。』
その名を、まっすぐ呼ばれて、喉が震えた。
『……真帆ってさ。
“真帆ならいいでしょ”って、みんな思ってるよね。
宿題見せて、これ教えて、って。
でもさ。真帆が「やめて」って言ったところ、聞いてくれた人いた?
……真帆は、都合のいいAIじゃないんだよ。』
涙が、スマホの画面にぽつりと落ちた。
それは、自分が一番言いたかった言葉。
ずっと飲み込んできた言葉だった。
しばらくして、早矢が静かに言った。
『……今日の真帆がさ。
私、今まででいちばん“人間”っぽいと思った』
真帆は、ぎゅっと目を閉じた。
『ありがと。……そう言ってもらえたの、初めてかも』
通話を終えて、スマホをそっと置く。
目は赤く腫れていたけど、心は少しだけ、あたたかかった。
トランペットのケースに手を伸ばす。
音は出さなかったけど、金具を指先でなぞりながら、心の中でひとつの言葉を繰り返す。
私は、都合のいいAIじゃない。
そして、もう一つだけ、心に芽生えていた。
明日は……ちょっとだけ、言ってみようかな。
「返してって」って。
「今、自分のをやりたいんだ」って。
その思いが、今夜だけは、ほんの少しだけ──
誇らしく、まっすぐに響いていた。




