『からだは、まだ私のものじゃない。』 ──少女たちの揺らぎと目覚めの群像劇──
◆掌編①『走れない日、私は走らなかった』(佐々木早矢)
陸上の練習中、ふと、足が止まった。
「……あれ?」
いつもの坂道。ダッシュ10本目。
踏み込もうとした足が、地面を蹴らない。
腰の奥に、ずしりと重さがあった。腹の下が、鈍く圧されていた。
何だこれ。
膝に手をついた。呼吸は整っている。
なのに、体が進まない。
スタートラインの白線が、いつもより遠く見えた。
「走れない日なんて、私にあるのかよ……」
ジャージの中。汗がにじむ。
けれど、それとは違う、じっとりとした違和感が腰のあたりを這っていた。
誰もいないのを確認して、ゆっくりとトイレへ向かう。
血の気が引く、という言葉があるけど、
今の私は、その逆だった。
「……はじまったんだ」
目の前の鏡に映る自分。
ジャージ姿。髪は乱れて、眉間にしわ。
いつも通り、走るための体。
でも、今日は。
(私は、戦う体のはずなのに)
痛い。
張る。
走れない。
「守られる側って、何だよ……」
一人きりのトイレの個室で、
私は黙って座ったまま、走らない時間を受け入れていた。
◆掌編②『この体が、私のものになる前に』(東雲 澪)
道具棚に手を伸ばしたときだった。
胸が、棚のふちに当たった。
「……あ」
ほんのわずかな衝突。けれど確かに、自分の中にあった“膨らみ”が反応した。
工具袋を斜め掛けにするときも、
シャツの布が胸元で、以前より引っかかる。
「……邪魔だな」
そうつぶやいた自分に、すぐ口を閉じた。
(胸って、必要なのか?)
(誰に?私に?)
剣道の面をつけるとき、胸当てがきつく感じるようになった。
相手とぶつかる一瞬、胸元を意識してしまう。
それが、いやだった。
そんな自分が、もっといやだった。
「……見られたら、どうしよう」
鏡を見ないようにして、制服を着る。
裾を伸ばし、肩をすぼめ、可能な限り“目立たなく”する。
誰にも触られたくなかった。
誰にも、見られたくなかった。
放課後。倉庫で整備中の棚に、検査シールのない部品が置かれていた。
澪はそのひとつを指先でなぞる。
(こういうの、使われないんだよね)
思い出すのは、剣道の試合前に行われる竹刀の検量だった。
長さ、重さ、割れ、ささくれ。
少しでも基準から外れていれば「使用不可」と弾かれる。
道具としての誠実さが問われるのは当然。だけど。
(……人間も、はじかれるのかな)
人の体にも、「検量」があるなら。
きっと私は、通らない。
そんな考えが一瞬よぎって、澪は目を伏せた。
私の体は、私のものじゃない。
まだ、そう思っていた。
◆掌編③『必要なのか、って聞いただけ』(澪と真帆)
放課後。技術準備室の隅。
澪は、棚に手をかけたまま、ふと言った。
「……胸って、必要なのか?」
トランペットの手入れをしていた真帆が、手を止めた。
「ん?」
「必要なのかって聞いただけ」
「……自分にとって?」
「誰にとってでもいい」
澪は相変わらず鏡を見ない。制服の裾は長め。前かがみの姿勢。
真帆は、少しだけ考えてから答えた。
「私は、最初ちょっと誇らしかった。
“育ってる”って思ったから。
でも……うれしい気持ちと、見られる怖さと、
どっちが本音か、わかんなくなった」
澪は黙った。
「だからって、無い方がいいとも思わなかった。
でも、気持ちは自分だけのものだから……
要るか要らないか、誰にも決められない」
「……ふうん」
それだけ言って、澪は工具袋を背負った。
「じゃ、行く」
「うん。また明日」
技術準備室のドアが閉まったあと、
真帆は小さくつぶやいた。
「……それでも、いつか自分で決められるといいね」
◆掌編④『ツインギアの片方』(澪と玲央)
夕方。澪が帰宅すると、玄関で待っていた玲央が声をかけた。
「遅かったね。工具の買い出し?」
「……寄り道」
「へえ。女子と?」
澪は無言のまま靴を脱ぎ、リビングへ向かう。
玲央があとを追って、そっと言った。
「……澪さ、最近ブラ選び、迷ってるでしょ」
「見てんなよ」
「見てないよ。でも、私は自分が“ある側”だから、わかる」
澪はソファに座り、背もたれに頭を預ける。
「……別に、いらないと思ってるわけじゃない」
「じゃあ、何が困るの?」
「……なんか、体の主導権を取られてる感じがして」
玲央はその言葉に、少しだけ表情をやわらげた。
「私は逆。体の変化が先にあって、それに心が追いつくのに時間かかった」
「……逆もあるんだ」
「うん。でも、双子でさえ、感じ方がこんなに違うんだもん。他人と比べても意味ないよ」
玲央はテレビをつける手を止めて、ぽつりと続けた。
「お姉と私だって双子で似てるところはあるけど、違うところもあるじゃない。
好みとか考え方とか身体とか。
お姉はお姉らしさがあっていいじゃない」
澪はとなりに並びながら、ぽつりとこぼした。
「ツインギアって、さ。回転数違うと、かみ合わなくなるじゃん」
「でも、タイミングベルトがつなげてくれる」
「それ、誰のこと?」
玲央はにやりと笑った。
「私たちだよ、澪」
◆掌編⑤『JISじゃないんだから』(澪・図書室)
翌日、澪は昼休みに図書室へ行った。
保健関係の棚。拾い読みした統計資料には、
『中学3年女子・平均バストトップ値:77.3cm』とあった。
自分のサイズは、85センチ。
(……そんなに、ズレてんのか)
資料を閉じ、目を伏せる。
「私はおかしいのか」という思いが、喉もとまでせり上がった。
帰宅後、玲央にそのことをこぼした。
「85って出た。平均より10センチ近く上。
なんか、JIS規格から外れてる気分」
玲央は笑わず、まっすぐに言った。
「澪。身体は工業製品じゃないよ。
JIS規格なんてないの。比べる必要も、標準規格も、ないの」
澪は小さくため息をついた。
「でも、誰かに“異常値”って思われたらって考えると……
図面引くとき、はみ出るパーツってすごく邪魔なんだよ」
玲央はそっと、澪の肩に手を置いた。
「それでも、その図面を引けるのは澪しかいないんだよ。
自分の体の設計図、他人に描かせちゃだめ」
澪は目を伏せながら、わずかにうなずいた。
(……この体は、JIS工業品じゃない。
世界に一つだけの、私のための体。
そして、いつか命を宿す器。)
(だから、私は私らしくあっていい)




