拳の記憶と、腹の奥のなにか
――“強くなりたい”と願ったあの日の手応えは、まだここにある。
夕暮れの体育館。
柔らかな光が高窓から差し込んで、床のラインが金色に光っていた。
マットの上で、早矢が仰向けになる。
「……よし、じゃあ、行こうか」
「まじでやんの? お前の腹に俺の拳を?」
「うん。もっと強くなりたいから。父さんにもよくやってもらってる。腹筋、鍛えるのに効くんだ」
そう言って、シャツをたくし上げる。
現れたのは、見事な腹筋のシックスパック。
女子の身体とは思えない、硬質な、そしてどこか滑らかなライン。
俺はごくりと喉を鳴らし、手を差し出した。
「じゃあ……押すよ。痛かったら言えよ」
「うん。大丈夫」
拳を軽く握り、ゆっくりと彼女の腹に沈めていく。
薄い皮膚の下に、密度のある筋肉が確かに存在していた。
ぐっ、とわずかに抵抗を感じる。
けれど、それがかえってリアルだった。
「……っ、そこ、いい。効いてる」
早矢の声が、少しだけ上ずった。
表情は変えないけれど、わずかに呼吸が乱れている。
俺は思わず手を止めた。
「……本当に、平気?」
「……うん。むしろ、変な感じ」
「変なって……?」
「いつもは、父さんにやってもらってるけど、今日は……なんか違う」
そう言ったあと、早矢はふっと目を伏せた。
「……お前の拳、あったかいんだよ。……なんか、それが変に伝わってきて」
沈黙。
腹筋を押してるだけのはずなのに、俺の鼓動が跳ねる。
(……腹の奥、って、こんなに近いんだ)
触れているのは拳の皮膚と、彼女の腹筋の表面。
でも、その向こうには、たぶん――言葉にできない“なにか”がある気がした。
「……もう一回、いい?」
「え……あ、ああ」
再び拳をゆっくり沈めると、早矢の喉がわずかに動いた。
「……そこ、さっきより深く……」
その声に、俺はぎこちなく押し込む。
拳に伝わる抵抗。
その奥にある、確かに生きている柔らかさ。
それは、筋肉だけじゃなかった。
彼女の“体の内側”と、俺の手の“感覚”が、どこかで繋がっていた。
「……ありがとう。凌」
「え……?」
「……お前の拳、ちゃんと届いてた。腹筋にも……それ以外のとこにも」
「それ以外……?」
「なんか、うまく言えないけど……変な感覚が残ってる。
いつものトレーニングと違って、なんか、“人の体”って感じ」
その言葉に、俺は思わず視線をそらした。
(……それ、たぶん、俺も同じだった)
拳に残った、あの感触。
熱。弾力。息遣い。
そして――腹筋の奥に、一瞬だけ感じた“命の音”。
それは、ただの筋トレじゃない。
生きている人間の体と心が、ほんの少しだけ触れあった瞬間だった。




