鋼鉄乙女早矢〜その奥底にある強さの原点〜
夜。母が寝静まったあとのリビングは、静まり返っていた。
テレビもつけず、部屋の明かりも落としたまま。
早矢は、何度目かになるその足取りで、父の部屋の前に立った。
扉を開けると、時間が止まったような空間が迎えてくれる。
使われなくなって久しいのに、父の部屋はいつもきちんと片づいていた。
その奥、クローゼットの中。
吊るされた濃紺のスーツに、そっと手をのばす。
布地はもう少しずつくたびれてきているのに、どこかピンと背筋を伸ばしているように見えた。
早矢は、スーツの襟元に顔を近づける。
目を閉じて、ゆっくりと深呼吸をする。
スーッと鼻を通ったのは、ほのかに残るタバコの匂い。
乾いた煙草の香りと、うっすら混ざった柔軟剤の香り。
記憶のなかでしか知らない父の体温が、そこにあるような気がした。
(……お父さん、元気にしてる?)
答えはもちろん返ってこない。
でも、ここにくれば、ちゃんと立ち返ることができる。
思い出すのは、あの日。
夜、停電で真っ暗だった部屋の中、泣きそうな顔の母を見上げて、
震えながらも言った自分の言葉。
「大丈夫。早矢が守るからね」
幼すぎて何もわからなかったくせに、
その言葉だけは、なぜか本気だった。
それからずっと、走ってきた。
速くなれば、強くなれば、母の涙を止められる気がして。
だけど、ときどき怖くなる。
この強がりが、誰にも届かなかったらどうしようって。
だから――この匂いが必要だった。
泣かないために。
ちゃんと立ち戻るために。
そして、また走り出すために。




