安全ではない安全靴
体育館の隅、剣道部の着替え棚の前――
凌は、なぜかそこに立っていた。
いや、うっかり匂いに吸い寄せられてしまっただけなのだ。
剣道部の部活終わり、汗を吸い込んだジャージと防具類。
「生命のにおい」というやつが、そこにはあった。
「……くんくん。」
鼻をすする音が、妙に大きく響いた瞬間――
背後から、ものすごく冷たい声がした。
「……今、嗅いだ?」
凌、凍りつく。
振り返ると、そこには剣道女子・澪。
無表情のまま、ジリ……と距離を詰めてくる。
「いや、ち、ちがっ……違くもないけどっ……好奇心というか……文化研究というかっ……!」
澪は黙ったまま、棚の下段に置かれていた安全靴を手に取った。
「ま、待て待て待て!!それ、“安全”って名前ついてるやつだよね!? だから俺にも安全なはず――」
ズバァンッ!!!
安全靴が空を裂いて飛び、凌の肩すれすれを通過。
体育館の柱に激突して、めり込んだ。
「……あぶなっ……っっぶなあああぁあああ!!??」
その場にヘタり込んだ凌が、震える指で柱を指す。
「それ安全じゃない!!投げた時点で**“暴力靴”**じゃん!!」
澪「穿くときだけ安全。それ以外は武器。」
凌「哲学的に怖いんですけどぉぉぉ!!」
ちょうどそこへ現れた真帆が、トランペットケースを抱えて呆れ顔。
「……あんたまた変なことして怒らせたの?」
「いや俺はただ、文化的に香りを味わおうと……」
「バカ。次は鼓膜吹っ飛ばすわよ。」
「待って本当に今日、五感が全部危ない日――!!」
---
安全靴、それは平和と暴力の境界線。
今日も滝川凌は、青春と命のにおいのはざまで生きている。
---
柱にめり込んだ安全靴を回収した澪は、無言でそれをカシャン、と床に落とした。
その音にビクついた凌が、小動物のように身をすくめる。
「こ、今回は俺が悪かった。完全に全面謝罪。においとか本能とか全部封印する。平和にいこう、剣道は素晴らしい文化だし、澪のことリスペクトしてるし――」
澪はじっと凌を見下ろしたまま、言った。
「次は、その安全靴でお前をグリグリ踏んでやるから。」
……その瞬間だった。
凌の心臓が、ドクンと音を立てた。
(……ん?今の……なんか……)
自分でも理由がわからない。
けれど、なぜか胸の奥が妙にざわつく。
(えっ、俺、怒られてるのに……ちょっと今の、ドキッとした……?)
その“気づいてはいけない感情”に、自分で慌てふためく。
「ち、違う違う!そっち方面じゃないから!俺は純粋に命のにおいに惹かれてるだけであって!」
澪「……うるさい。変態。」
(否定されるのに、ちょっと嬉しいのやめたい)
顔を真っ赤にしながら、体育館の床に転がる凌。
そして――
心の奥で、小さく呟いた。
(……“グリグリ”って、言い方がなんか…やばかったな……)
---
その日、滝川凌の中に芽生えたのは、恋ではなかった。
けれど確かに何かが…においとともに、覚醒しかけていた。
---
-




