その香り、君じゃなかった。 ―匂いで始まるすれ違い青春
夕焼けの光が剣道場の床を照らし、柔らかな影を伸ばしている。
人気のない道場の戸が、そっと音を立てて開いた。
滝川凌は、そろりと中へ滑り込みながら、周囲に気を配る。
「……よし、誰もいない」
目当てのそれは、道場の隅に整然と置かれていた。
竹刀、防具、そして──汗が染み込んだ小手。
(澪先輩……今日も練習、全力だったんだな)
恐る恐る、小手を手に取る。
まるで神器でも扱うかのように、丁寧に、慎重に。
鼻を近づける。ぐいっと吸い込む。
「……っく。すげぇ……」
湿気と塩気。布に染み込んだ努力の香り。
だが、その奥に、ふんわりとした甘さが混じっていた。
(……甘い? 澪先輩って、こんなに甘い匂いだったっけ?)
違和感に戸惑いながら、次は垂の内側へ。
膝裏から太ももにかけての部分を嗅ぐ。ここも、湿っている。
「これは……すげえな……どこか、花みたいな匂いすら……」
そんな時だった。
「……ねえ、それ。わたしのだけど?」
背筋が凍る声。振り返ると、そこには──
剣道着を脱ぎ、制服姿になりかけの少女。
澪……に見えた。だが、どこか違う。
「……澪先輩?」
「違うよ。私は玲央。澪とは双子。姉と間違えられるの、よくあるけど……」
玲央の目が鋭く光った。
「それ、わたしの防具。さっきまで使ってたの、わたし」
「……ッ!!」
次の瞬間、竹刀の柄の先が凌の腹にヒット。
「うぐっ!!」
「人の防具、勝手に嗅ぐなんて……変態!」
「ち、ちがっ……!」
言い訳も虚しく、二撃目が脇腹へ。
「ぎゃあああっっ!」
転がるように地面に倒れ込む凌。息も絶え絶え、目に涙をためながら呻く。
「嗅ぎ分け……失敗っ……!!」
「嗅ぎ分けるなーーーっ!!!」
剣道場に、玲央の怒号が木霊する。
その騒ぎを聞きつけて現れたのは、当の姉・澪。
「あー……ごめん、うちの妹、潔癖でさ。あとちょっと恥ずかしがり屋だから、過剰反応しちゃうんだよね。まぁでも……嗅いじゃったのは事実だから……ご愁傷様」
ぽん、と凌の肩を軽く叩く澪。
妹を叱る様子もなく、どこか楽しげに笑った。
玲央は顔を真っ赤にしたまま、ぷいっとそっぽを向いたが──
そのまま小声で、ぽつりと呟く。
「……でも、ちょっとだけ気になったんだけど。わたしの匂い、どうだった……?」
凌は目を見開いた。
「え……い、いや、その……ちょっと甘くて、なんていうか……あの、その……すごく……」
「……変態。」
玲央は顔を真っ赤にして逃げ出し、澪は遠くで腹を抱えて笑っていた。
そして凌は──
“におい”で双子を嗅ぎ分けた最初の男として、また一歩、伝説に近づいていくのであった──。




