嗅覚覚醒。俺は犬になったのか?
春の風がまだ少し冷たかった。
新学期の朝練。グラウンドには、スパイクの音がリズムよく響いている。
「……っ、く、はっ……!」
息を切らしながら走るのは、佐々木早矢。
滝川凌と同じ陸上部で、誰よりもストイックな練習を続ける「鋼鉄女子」だ。
その日も、早矢はひとり黙々と坂をダッシュしていた。
滝川凌は、走り込みを終えてストレッチをしていたが、ふと気づく。
(あれ……?)
早矢が芝生の端でしゃがみ込んでいる。
普段なら最後まで走り切るのに――今日は違った。
「……佐々木?」
声をかけると、顔をしかめた早矢が小さくうなずいた。
「……ちょっとだけ、お腹が……冷えて、痛いかも」
その言葉に、凌の中の“なにか”がピクリと反応した。
さっきまで汗でぼんやりしていた感覚が、一気に研ぎ澄まされる。
風が吹いた瞬間、凌の鼻先をかすめたのは――
土の匂い。雨で濡れた芝生の匂い。そして――早矢の匂い。
汗、肌、ジャージ、生きている証のような匂い。
それが混ざり合って、凌の中に何かを訴えかけてきた。
(……え、これ、やばくない?)
自分でも理由がわからない。けれど本能が、匂いで彼女の状態を理解しようとしていた。
(……もしかして、これが“フェロモン”ってやつなのか……!?)
鼻の奥がじんと熱くなった。意味もなくドキドキする。
早矢は地面に手をついて、息を整えている。
その背中を見た瞬間、凌は思わず、腰に巻いていた自分のジャージを脱いで差し出していた。
「……これ、尻の下に敷いとけ。冷えるともっとキツくなるから」
「え……いいの?汚れちゃうけど……」
「いいって。俺のジャージ、元から汗まみれだし。あと……ほら」
凌は強引に、芝生にしゃがみこんでジャージを広げると、早矢の腰のあたりにそっと敷いた。
その瞬間、ふわっと立ち上る匂いに、心臓が跳ねた。
(あ、これ……たぶん、俺の“におい覚醒”が始まってる……)
思春期の始まり方が、よりにもよって「匂い」だなんて。
だけど、たしかにこのとき、滝川凌の中の感覚がひとつ、覚醒した。
目の前の佐々木早矢は、強くて、速くて、鋼のような存在だった。
でも今、彼女が「人間」だと感じた。
汗をかいて、痛みに顔をしかめて、冷たい芝生に座り込む。
そんな姿から漂うのは、まぎれもない――命のにおいだった。




