高地トレーニングマスク事件 ~変態犬、覚醒~
「……っ、はっ、ふうっ……」
山の急坂を、佐々木早矢は黙々と駆け上がっていた。顔を覆う黒いマスク――高地トレーニング用の特殊器具は、呼吸を制限し、過酷な酸欠状態を意図的に作る。
汗はポタポタと地面に落ち、Tシャツは背中にぴったり張り付いていた。
その姿を見ていた俺――滝川凌は、思わず呟いていた。
「……いや、バケモンでしょ、あれ」
トレーニングを終え、早矢はグラウンドの隅でペットボトルを開ける。マスクをはずし、ジャージの上に置いた。
俺の目は、思わずそのマスクに釘付けになっていた。
(使い終わったばっかの、汗と呼気がこもったマスク……)
喉が鳴った。気づいたときには、手が勝手に伸びていた。
そっと持ち上げ、鼻先へ。
ふわっと、湿ったぬくもりが残る。
汗と、微かにシャンプーの香り。
そして、なんだ。
この……ちょっとだけ甘い、体温の匂い。
「なにしてんの、変態犬」
「ひゃいッ!?」
背後から低く鋭い声。
振り返ると、タオル片手に仁王立ちの早矢。
目が据わっている。
「そのマスク、私の口にぴったりだったんだけど。何してた?」
「い、いやその……酸素濃度の確認を……っ」
「……お仕置き」
次の瞬間、タオルが首に巻きつけられ、きゅっと締まる。
「ぎゃああああッ!ちょっ、まっ……ッ」
「変態犬には、呼吸制限がお似合いでしょ」
夕焼けの空の下、俺はタオルに締め上げられながら、自分の“性癖”の目覚めに戦慄していた。
その夜、マスクと早矢の匂いが脳内をグルグル回る。
汗の成分、吐息の濃度、肌に残った熱。
寝返りを打つたびに、鼻がそれらを思い出す。
「くそ……やば……これ……」
朝、目が覚めると布団の中がしっとりと湿っていた。
自己主張していた部位の名残と、匂いが、確かにあった。