最初の訓練
邪神の力を得たわけだが、食事も睡眠も何ら問題はなく、屋敷内にいる侍女なんかも俺の変化に気付くことはなかった。
ちなみに、プライベートな事情はどうなるのかという疑問があったのだが、そこについてはあっさりと邪神から返答が来た。
『我は自身の意思で意識を切り替えることができる。貴殿が普通に暮らしている間は我の存在は不要だろう? 意識を閉じているから、用があれば起こしてくれ』
そう言ってジャノは俺の奥底に引きこもった……結果、頭の声にすら悩まされることはなく、翌日を迎えた。
朝、食事を済ませ支度を整え、俺は侍女に「外へ少し出かける」と告げた後、部屋へ戻り腰のベルトに剣を差し屋敷の外へ出た。そして敷地を抜けた時、
「ジャノ、聞こえるか?」
『……ん、時間か』
声を発する邪神――もといジャノ。
「今の今まで眠っていたのか?」
『ああ、そうだ……さて、いよいよ我が力を制御するために訓練するわけだが……相応に力が大きい故、普通のやり方では上手くいかないだろう。よって、少しばかり強引な手を使う』
「強引な……手?」
『魔物討伐といこう』
魔物を――ちなみに俺は今まで魔物と相まみえたことはない。エルクとしての知識に加え、前世における漫画の知識によって魔物とはどういうものなのかを理解しているが、直接この目で見た経験がない。
この世界における魔物は、人を害する異形の存在。大気中に存在する魔力が淀み、人を害する瘴気に変化する。そこからさらに瘴気が滞留すると、魔物が生まれる。姿形は様々で、どんな見た目になるかは法則性がないが、魔物が生まれた場所の周辺に存在する生物の姿を象っていることが多い――
頭の中で魔物に関する情報を思い出している間に、ジャノはさらに続けた。
『ここから北に位置する場所から魔物の気配を感じる。まずはそこへ赴いて実戦から力の扱い方を指導しよう』
「……この距離で魔物がいるとわかるのか?」
『気配を感じ取れるからな。それなりに強い個体だろう』
ちなみに屋敷から見て北の山は岩山である。断崖も多く、人が好き好んで入るような場所ではないし、そもそも距離だってあるのだが――
『しかし、距離がある。そこで、まずは移動法を学ぶとしよう。貴殿が持っている知識……漫画では、主人公が足に魔力を集めて高速で移動する方法があったはずだ』
――確かに、そういう技法を使っていた。それは『魔導脚』と呼ばれる技法であり、足全体を魔力で覆って強化し、高速で移動するというもの。
長距離移動する場合は一歩で何十メートルも進む、まるで飛ぶように移動できるし、戦闘に入った際は一瞬で相手の背後を取ったりと、色々と応用もできる。漫画は物語が進むにつれてインフレし、この技法がないとそもそも敵と戦うことができないくらいになっていた。
「俺、使ったことないけど?」
『だが、学んだことはあるだろう?』
剣術を教えてもらった騎士から指導されたことはあるけど……俺が持つ魔力量では使えなかった。
『我が力を得た今ならば、容易に扱えるはずだ』
「……問題は、制御できるかどうか」
『そこは貴殿の努力次第だな』
いきなり実戦よりも、最初に力を試す方法としては無難か。よって屋敷を離れ北の岩山が遠くに見えた段階で、早速技法を試してみる。
視界には北へ通じる道と、その周囲に畑が点在している。だが現在人の姿はなく、俺のことを見咎める者は誰もいない。練習をするには絶好のタイミングである。
「移動手段を練習しつつ、北へ向かうと」
『そうだ。我が持っていた力の扱い方は簡単だ。貴殿が自分自身の魔力を練れば、それと共に魔力が湧き上がってくるはずだ』
言われ、俺は魔力を引き出してみる。この方法は以前魔法を指導してもらった際に教えてもらった。
すると、自分の魔力にくっついて何か巨大なものが体の奥底から湧き出てくる……なんだか不気味なのだが、俺はその魔力を足にまとわせた。
「これで、いいのかな?」
『うむ、良いのではないか?』
えーっと、それじゃあ次は……確か頭の中でイメージをして、地を蹴る……というやり方だったはず。
俺は前世にあった運動会の徒競走をするような構えを取る。そして頭の中で理想を描く。一歩踏み出すと足が地面から離れ、数十メートルくらい跳ぶように移動する……魔法の強化があるこの世界において、勇者クラスであれば扱える技法。だが、魔法と縁のない人は一切不可能である。
俺も魔法の才がなかったため、こんな移動方法は使えなかった。しかし、力を得た今ならば……頭の中でイメージした後、俺は呼吸を整え、
「ジャノ、いくぞ」
『ああ』
返事と同時、俺は地を蹴った。そして文字通り飛ぶように――ここで、俺は致命的な間違いをしたことに気付いた。
まず、跳躍する角度が高すぎた。地面から少し上、というイメージだったのだが、実際は地面から大きく離れてしまった。
そして、地を蹴った勢いも全力に近かったため、次の瞬間には視界全体が空の青色で染まった――つまり、俺は身一つで地上十数メートルまで跳躍し、なおかつ凄まじい速度で鳥のように空中を突き進むこととなり――
「――は? はああああっ!?」
空中であたふたすることになった……って、どうするんだこれ!?
『加減をまったくしなかったら当然そうなるに決まっている』
そしてジャノはずいぶん冷静に言葉を紡いだ。
『我の魔力が体に備わっているため、このまま落下しても大した怪我はしないだろう。だが、せめて姿勢制御はしないと顔面から地面に激突することになるぞ?』
――俺は必死に空中で体を動かした。その間に俺の体は山なりの軌道を描いて飛び、一気に地面が近づいてくる。
どうにか足で着地を――衝撃に備えて魔力で体を覆いながら、内心祈るような気持ちで体を制御し……奇跡的に、足から着地した。
足が土の地面に設置した瞬間、衝撃が生まれたが痛みはない。そして着地しても勢いは止まらずガガガガと地面を滑り……二、三十メートルくらいして、ようやく停止した。
『うむ、まあ初めてにしては着地も上手くいったし良かったのではないか?』
そして最後に、極めて呑気なジャノの評価。俺は「こうなる可能性があったなら最初に言え」と叫びたくなったが……なんというか、そんな気力も湧かず、後方を振り返った。
数十メートルするどころか、数百メートルは今ので突き進んでいた。屋敷の屋根がずいぶん遠くに見え、着地した地面は衝撃で多少抉れている。
……ジャノの力をただまとわせただけでこの結果である。背中から嫌な汗が出てきた。
『呆然としているようだが、これを制御するのが魔物討伐前の目標だ。いけそうか?』
そしてジャノが問い掛けてくる。俺はしばらくの間答えることができなかったが、
「……やらないと、魔物討伐もできないんだろ」
『いかにも、まずは力を調整し、移動できるようにしなければ魔物討伐まで終わらないぞ』
「これ、今日のところはこの練習に集中した方がいいんじゃないか?」
『魔物を放置してもいいのか?』
ぐ……痛いところを突いてくる。
領主として、魔物を放置することはできない。北の岩山に人がいないにしても、それがいつ何時人里に下りてくるかわからない。
領内にいる騎士達を動員するにしても、まず調査から始めなければならない以上、時間が掛かる……領内の平和を考えるなら、気付いている俺達で討伐するのが一番早い。
――そうした俺の考えを推測したのか、ジャノはさらに続けた。
『状況は理解できているようだな。では、早速進むぞ』
「……どれだけ時間掛かるかな」
ただ、移動方法をちゃんとできれば、あっという間に目的地に到達できるだろう。俺は一度深呼吸をした後、周囲を見回す。
相変わらず人はいない。ただ近くに農村があるので、その内畑を耕しに誰かが来るだろう。それまでに、さっさと通過しなければ。
俺は再び足に魔力を集中させて……移動を再開する。そうして岩山に辿り着くまで、ひたすら『魔導脚』の習得に励んだ。