辺境の領主
漆黒に飲み込まれたその日は、いつもと同じ穏やかな朝から始まった。
俺、エルク=リュービスは日の出から少しして目を覚ます。部屋は広く、大きめのベッドですらずいぶんと小さく見えてしまう……子供の頃からこの部屋で過ごしている俺には見慣れた光景だが、もう少し小さくてもいいのに、とたまに思ったりする。
ベッドから出るとまずは稽古着――真っ白で簡素な衣服を着て、ベッドの傍らに置いてある訓練用の剣を手に取り、部屋へ出るべく歩く。朝起きたら剣を振るのが日課であり、今日も同じような一日を開始した。
部屋を出ると、赤い絨毯が敷かれた廊下に出る。人の気配はほとんどない屋敷の廊下……俺は無言で中庭へと向かう。そこで朝食の時間がやってくるまで剣を振る。これがいつもの日常だ。
中庭に到着すると、剣を握りただ無心で振り始める。その間に今日のスケジュールを頭の中で整理する。といっても、日々やることはそれほど多くない。俺はこの場所――ゼルティア帝国の西の果て、ルディン領の領主ではあるが、成人年齢に達していないので執政はほとんど忠臣達がやっている。だから、やることとしては剣を振るか勉学に励むか、領地内の様子を見て回るか、といったくらいだ。
ただ今日は少しばかり予定が入っていた。それは、
「――エルク様」
声がした。振り向くと、屋敷に勤めている黒髪の侍女が立っていた。
「お食事の時間です」
「わかった、ありがとう」
返事と同時に稽古を終了。俺は自室へ戻り朝食をとる。家族がいるのなら屋敷内にある食堂を使うかもしれないが――俺の両親はいない。いつも一人、自室で食事をしている。
手早く食べ終えると、稽古着から着替える。黒を基調とする、この国――ゼルティア帝国でよく見られる、黒を基調とした貴族服。外用の衣服であり、部屋の中にある姿見で服装に問題ないか確認する。
鏡の向こうには栗色の髪を持つ、十代後半の男の姿があった。背丈は普通、体つきも決して恵まれているとは言えない。そして社交界のパーティーではよほど奇抜な衣装を着ていなければ埋没するだろう、地味な顔立ち……それがエルクという人間であった。
一度呼吸を整え、俺は部屋を出る。迷いなく屋敷を出ると、外には町へ繋がる道と田園風景が広がっていた。
「エルク様」
そこで男性の声がした。見ると護衛の役目を担う騎士が一人と御者。声を発したのは騎士であり、彼らの後方には一台の馬車が。
「今日は町まで?」
「ああ、迎えに行くつもりなんだけど……まだ時間があるし、町中を見て回ろうかと考えているよ」
「良いかと思います」
そこで、御者が馬車の準備を始める。そうした光景を見ながら俺は、視線を屋敷の外へ。道なりに進むと、少し距離はあるが小さな町が見えた。
今日は屋敷まで訪れる客人が一人。頻繁にここを訪れる人で、町まで向かい、馬車で送迎をするのがいつものパターンであった。
「準備ができました」
御者から声が掛かる。そこで俺は、
「では、行こうか――」
帝国における俺の立場は、辺境に領地を構える若き領主――ルディン領は南北と西側を山に囲まれている上、断崖絶壁なども多く交通の要所でもないため、訪れる人は少ない。
ただ、俺の名を知っている人間は少なからずいる。ただしそれは、俺が有名というわけではなく、婚約者の方が有名であるためだ。
俺は馬車の揺られつつ、窓の外にある畑を眺める。畑を耕す人の姿があり、それは自分にとって慣れ親しんだ、日常的な光景であった。
「……前にお越しになられたのは、一ヶ月前でしたか?」
ふいに御者台から声がする。騎士が発したものだ。彼と御者は共に御者台にいて、車内には俺一人。話題は、これから迎える人についてだ。
「一ヶ月半くらいかな。ほら、畑に雪が少し残っていた」
「ああ、そうでしたね。その前の来訪時には雪で車輪が滑り難儀した記憶が」
「彼女が魔法で対処してくれたんだよな。迎えに行くつもりが逆に助けられた」
騎士は笑う……雑談をしている間に、町へと到着した。そこで馬車を降りると、俺に挨拶をする女性が。
「領主様、おはようございます」
「おはよう」
俺はにこやかに返しつつ、御者へ町の反対へ回るよう指示を出す。迎えの人がやってくる方角はいつも決まっている。よって、馬車をそこまで移動させる。
その間に俺は町を見て回る。一ヶ月に数度、俺はこうして町の様子を見て回っている……とはいえ、変わったことはほとんどない。旅の人間とか、観光客が来るような土地でもないため、代わり映えのない日常がそこにはあった。
これを停滞と感じるか、それとも平穏だと捉えるかは人それぞれだろう……変わらない日常に嫌気が差せば、きっと何かを求めて帝都へ行ったりするのだろう。
ならば俺はどうか。領主ということで俺はこの土地を離れることはしないし、できない……でも、そこに不快な思いは一切なかった。多くの人が変わらない日常を過ごすのを見て、穏やかな日常を噛みしめている……平和な世界が、この場所に広がっていた。
そうした日常を作ることこそ、俺の仕事……そんな風に思いつつ、移動した馬車が停まる場所までやってくる。そして町の入口から街道へ目を凝らした時――俺は、迎える人が歩んでいる姿を捉えた。
その人物はたった一人、町へと歩んでいる――身分を考えれば本来、多数の従者や騎士に守られる人物のはずだ。しかし今は一人であり、国側もそれを認めている――
段々と近づいてくるその姿に注目。女性で、全身を覆う白い法衣と結い上げた青い髪。そして右手には宝石が埋め込まれた杖を握っている。
一見するとその姿は旅の魔術師――魔法を扱い、それを生業とする存在のようだったが、まとう空気が明らかに違った。言葉で表せば『オーラ』が違うとでも言えばいいのだろうか。周囲を圧しながら、同時に人を惹きつけるような雰囲気は、この田舎で普通はお目にかかれない光景であるのは間違いない。
彼女から出る気配は高貴な所作や歩き方によって出ているのかもしれない……彼女の後方には街道と、田園風景が広がっている。俺にとっては見慣れた景色なのに、それを背景に歩む彼女の姿は……絵画で描かれるワンシーンのようにも見える。その全てが絵になる世界……俺は言葉もなく、ただ彼女を眺めながら立ち尽くすしかできなかった。
やがて彼女は俺に気付いた。黒い瞳が俺を射抜き、柔和な笑みを浮かべる。
――笑顔の彼女は、女神と見間違うほどだと誰かが言っていた。実際彼女の異名に『蒼き女神』というものがあり、当人は困惑していたが、そんな異名に負けないだけの空気をまとっていることは間違いない。
綺麗に結い上げられた髪も、整った顔立ちも、その全てが彼女を引き立てる一要素でしかない……こんな田舎に来るような人物とは思えない。しかし彼女は、
「久しぶり、エルク」
笑顔を絶やさないまま、俺へ声を掛けた。
「……ああ、ようこそ。セリス」
そう応じると、俺は馬車を手で示す。
「話は屋敷に行ってからにしようか」
「うん」
返事と共に馬車へ乗り込む――俺は彼女の手を取り、車内へ。
座ると同時に馬車は走り出し、屋敷へと向かう。その中で彼女は窓の外を見た。そして何も変わらない町並みを見て、どこまでも嬉しそうだった。
――彼女の名はセリス=フェーレン=ゼルティア。ゼルティア帝国における第二皇女。そして……俺の婚約者である。