第5話
男が立ち去った後、私は駆け込むような勢いで帰宅。風呂場の鏡で、自分の歯が正常なのを確認する。
同時に頭に浮かんできたのは、小さい頃に母方の祖父から聞かされた話だ。
祖先が住んでいた南フランスでは、狼男の伝承があったという。狼男ではないかと疑われて、迫害を受ける者がいたり、いわゆる魔女裁判みたいな形で狼男と認定されて、処刑される者がいたりしたらしい。
とはいえ、しょせん狼男なんて実在しない。伝承や物語の中の存在に過ぎないし、かつて迫害されたり処刑されたりした者たちも、実際にはただの人間だったのだろう。
私はそう思ってきたのだが……。
そんな私の常識が、あの満月の夜の出来事をきっかけにして、ガラリと崩れてしまったのだ。
なにしろ狼男といえば「満月の光で人間から狼の姿に変身する」と考えられているように、満月とは切っても切れないほど深く関係している怪物だ。
そんな満月の夜に、ちょうど狼の牙みたいな歯を持つ男と出会ったり、その男や私の目に、本物の満月とは異なる「もうひとつの満月」が見えたり。
思い返せば思い返すほど、あの男の言っていた「私たち同族」というのが、狼男の類いに思えてくる。小説や漫画などに出てくる狼男の顔は『狼』そのものみたいな場合が多いが、それはフィクションに過ぎず、現実の狼男はあの程度。顔中毛むくじゃらだったり、鋭い牙が生えていたりというのが、狼男の特徴なのだろう。
私はあれ以来、毎朝の洗顔の際、鏡できちんと確めるようになった。今まで通りの顔や歯が映っているのを見て、ホッと胸を撫で下ろすのだ。
しかしその度に、すぐに新たな不安が生まれてくる。「異変が生じるとしたら満月の夜なのではないか?」と心配になってしまう。
あの夜は満月を見ても真っ当な人間の姿のままだったけれど、結構ギリギリだったのかもしれない。そもそも「真っ当な人間の姿のまま」でもあの満月が――同族だけに見えるという「もうひとつの満月」が――見えたくらいなのだから、私の体に流れる祖先の血は、かなり濃いのではないだろうか。祖父の話によれば非常に薄いはずだったが、先祖返りみたいな現象が起きているのかも……。
幸いなことに、あの後何度か満月の夜を経ても、私の体に異変は生じていないし、あの男と再び出くわすこともなかった。だが、もしもまた「もうひとつの満月」が見えたりしたら怖いので、私は二度と夜空を見上げないことにしている。
(「満月の夜に出会った男」完)