脳髄虫
最初に、本作が一番可笑しいです。無理やり落ちをつけ、実質未完なのですが、その理由は私が頭がおかしくなりそうと思ったからです。
ある時、彼は違和感に立ち竦んだ。
耳の奥底で。カサカサと足音が響いていたのだ。
彼は、すぐにその正体が分かった。脳の中に虫がいる。百円硬貨程度の虫がいる。
混乱した彼は、耳を叩いた。
しかし、足音は消えず、脳の虫は驚いたのか、はたまた嫌がらせをするためか、さらに動きを大きく出した。
脳内で動く虫の不快感に耐えきれず、「アアアァアアアァァアア!」と彼は、遂に発狂をした。
金切り声は、青い花柄の壁紙に吸い込まれ、一部は反射し、そして消え入った。
窓の外に見える月光は、彼に安堵と、恐怖を与えた。
月が出ているのなら、必然いつかは沈む。
沈むということは、時間が経過することとなる。
時間が経過しては、脳に巣くう虫が、増殖する可能性が否めないからである。
彼はむせび泣き、頭を窓にかかった鉄道格子に、何度も叩きつけた。
その度に虫は、脳味噌を囓り、彼に痛みを与える。
そして遂には、表皮の一部を突き破り、彼に血を流させる。
流れる血を見て、彼は一瞬安堵をし、そして直ぐさまに顔を強ばらせた。
頭から血が流れているのに、一向に虫が外に出て行かないのだ。
この方法では駄目だ、と気付きを得て、彼は卓上を見た。
卓上には、乱雑に紙の束が置かれ、その中央に鋭いハサミがあった。
「ああ、これだ」と彼は呟きながら、卓上のハサミを取り、頭を刺そうとした。
しかし、「お兄様、どうしたのです! お兄様!」という叫び声に阻止されることとなった。
「……何でもない」と扉の外から聞こえた妹の声に、逡巡をしながらも怒鳴って返す。
脳の中の虫、仮に脳髄虫としよう。これの存在が知られてしまっては、大変な事となる。このような得体の知れぬ存在を体に飼っていては、この家より追い出されるかも知れない。
この脳髄虫が、いつ彼の頭蓋を突き破り、その姿を現わすのかが知れないからだ。
黒い外皮に、細長い口器に触覚、そして茶色い産毛、テラテラと脂を想起させる羽根、その危険な虫が出て来ると分かっては、必ずやこの家より追い出されてしまう。
きっと、私の側に寄ったらば、すぐに脳髄虫の存在に気付くことだろう。
奴らは一刻も止まることはなく、蠢き続けている。
「本当ですか?」
ハサミを再度握り込むと、呼応するように呼びかけられた。
普段大人しい彼が、唐突に発狂をしたのだ、彼女が不安を抱くのも必然である。
「嗚呼、本当だ」
響く足音から、脳髄虫の位置を確認しながら彼は言葉を返し、妹が扉から離れるのを待った。
頭に刃物を刺せば、当然大きな音が出るだろう。それを聞かれてしまっては大変だ。妹がパニックを起こしてしまっては、最早どうすることも出来ない。
「本当に、本当なのですか?」
何度も繰り返される確認に、苛立ちながらも彼は肯定し続けた。
そして、ハサミを置き、タバコに火を着けた。
何十分も気を逸らさず、脳髄虫の足音を聞いていると、次第に頭が狂っていくのが分かったからである。
「お兄様、私は心配なのです」
「そうか」
「お兄様……」
適当な会話を続けていると、彼はある気付きを得た。
タバコを一息に吸った、あの瞬間から忽ちに脳髄虫の足音が消えたのだ。
明りが消え、暗かった部屋には、原色が宿った。
青い花柄の壁紙は、流動し、徐々にその蕾を開き、そして満開に花を咲かせた。その花は直ぐに萎み、そして枯れ、種を落とし、再度そこから命を芽吹かせた。
窓の鉄格子により、刻まれた月光が彼の前で舞い踊った。
青白く輝く昆虫に似た羽根が揺れ、青白く、時折原色を浮かべる鱗粉が舞った。
月光の妖精は、彼の前で微笑み、そして彼を楽しませるため、演舞を続けた。
妖精は演舞の最中、呪いを綴った。
「ああ、憐れかな。キ印一匹、檻の中。虫の気付きは、煙の中。煙に巻かれて、何も見ず。キチガイ根性、誰知らず。圧政、圧力、重圧と彼を狂わす、社会性。嗚呼、憐れかな。キ印一匹、檻の中。虫の気付きは、煙の中。煙に巻かれて、何も見ず……」
彼は、荒唐無稽のその呪いに腹を折った。
意味はなんとも理解しがたく、不明瞭であるが、笑えてきたのである。
壁紙を叩き、その反響音でさらに笑う。滑稽な妖精の呪いと演舞を笑い、流動する花弁を笑った。
しかし、愉快な気持ちだったのもつかの間、「お兄様! お兄様! どうしたのです!」と叫び声で引き裂かれ、彼は妹の存在を思い出した。
彼の心中は、憤慨によって満たされ、彼の世界は赤く染まっていった。だが、切り裂かれ、憤慨取って代わった愉悦は、すぐさまに回生し、彼に考えさせた。妹に脳髄虫の死と、目の前の滑稽な踊りをどうやって伝えようか。
「虫が死んだんだ。そして、踊っている」と、彼は一頻り考えた挙げ句の言葉を零した。
「何を言っているのです。お兄様!」と、妹は理解しようとせず、嘆くように叫んだ。
どうして理解されないのか、と苛立ちを覚えながらも、彼は再度タバコを口に咥えた。
その瞬間、彼の頭から妹のことが消え去り、同時に眼前の妖精が消え去った。
辺りは白く染まり、そして青い花が拡大し、縮小した。
彼は耐え難い高揚感に包まれると同時に、頭の違和感に気付いた。脳髄虫が、再度現れたのだ。
「アアァ! どうして!」
金切り声が、部屋に飽和した。
脳髄虫は、彼の脳味噌を走り回った。
時には、血管を食い破り、彼の脳味噌に欠落を生じさせる。けれども、脳髄虫は止まるところを知らない。遂には、彼の表皮を食い破った。腕に、無数の脳髄虫が蠢き、彼のことを見つめていた。
その姿は、彼の予想通りのものであった。 黒い外皮に茶色い産毛、テラテラと脂を想起させる羽根、その危険な虫ケラが、彼の腕を覆っていた。
「アアァア! アアァア!」と彼は、耐え難い不快感に叫び、虫を掴んだ。
脳髄虫を引き抜けば、皮膚が破れた。
そして、遂に百円玉大の醜い、数え切れない足を持つ、不愉快極まりない虫はその全容を晒した。
彼は、引き抜いた脳髄虫を、何度も踏みつけた。
何十回か踏むと、虫ケラは脳髄をぶちまけ、その硬い甲殻を粉々にした。その無様な姿を見れば、一瞬の安寧を得たが、しかしまだ彼の皮膚には脳髄虫がいる。
幾度も嗚咽を零しながら、彼はハサミを手に取った。
目の前には、慈悲を期待するように、こちらを整然と見つめる脳髄虫がいる。奴らは、彼のことを確かに見つめていた。
憤怒に満たされ、彼はハサミを振り下ろした。
その度に血が舞い上がるが、混じって弾け飛ぶ黒い甲殻や、醜悪な黄色い臓器を見れば、苦痛は些事に過ぎなかった。
血飛沫が辺りを満たし、部屋を赤く染めた。
不快感は薄れ、脳髄虫が全て消え去ったことに気付いた。
「嗚呼」と感嘆に声を漏らしていると、鍵の開く音が聞こえた。
この部屋を開けられるのは、部屋の内部にいる彼、それと鍵を持つ彼の父親だけである。
彼は瞬間、どう言い訳をしたものか、と悩んだが、直ぐさまに真実を話すべきだ、と結論づけた。しかしながら、彼が声を発するより早く、「イヤアアァアァアァ!」と叫び声が、充満した。
彼は、妹の発狂に幾許かの恐れを抱きながらも、闖入者と向かい合う。妹は、いまだに発狂をしており、彼の父は声を失っていた。彼を見下ろす視線は、虫螻を見るものに近かった。
「父さん、この虫は仕方がないのです」と彼は、状況の理解が出来ていないのだろう、という考えの基父親達に話した。
「お前は、何を言ってるんだ」と、父は当惑の声を挙げた。
「ほら、此処に! ココに虫がいるんです!」と、彼は先程まで虫がいた箇所を指し示した。けれども、そこに脳髄虫を証明する事物は、一つも存在しなかった。
彼は声を失った。これでは、狂人だと思われてしまう、と恐れ戦いたのである。
「違うんです。父さん、本当にココに虫がいたのです! 百円玉程度の脳髄虫がいたのです!」と彼は叫び、父の足に縋付いた。
父は、ズボンにつく血と彼の醜態に、表情を凍らせていた。瞳の奥は、露骨な恐怖に揺れていた。
「父さん! 父さん!」と彼は叫び、父のシャツを掴んだ。その時、彼は吹き飛ばされた。そして、一言の暴言を浴びせられた。「化物め!」
彼は浮遊感の中で、必死に父の元に走った。けれど、軽蔑の視線は消えず、勢いよく扉が閉められてしまった。喪失感の中、妙に妹の発狂が耳に張り付いた。
「アアアァ! 信じてください!」と彼は、扉に怒鳴った。その言霊は、扉に跳ねっ返り、木霊した。尋常ならざる叫びは、次第に脳髄虫の姿に変わっていった。言霊の穂先は、醜悪な口器と触覚に形を変え、そこから徐々に姿を現わしていった。
「父さん! 助けて! ソコに脳髄虫が、ノウズイチュウが!」と彼は喚き散らし、躙り寄る脳髄虫の大群を視界に収めた。脳髄虫は、首を傾げ、変哲もなく触覚を揺らし、とても数えられない数々の足を動かした。
彼は、必死に扉を叩いた。やはり、微塵も開くことはない。部屋には彼と妹の叫声、虫の外骨格が擦れる音、それらに加えて妖精の恐ろしい呪いが混じり合い、響き渡っていた。
彼の頭蓋の中で、複雑に絡み合った白っぽいタンパク質が、解け、蜷局を巻き、再度解け、彼の脳天から突き抜けた。
「アアアァァァ」と、彼は痛みに叫び声を上げる。
砕けた頭蓋が空に舞い、その姿を蝶に変える。そして、吹き出る脳髄がその羽根に追従し、暗い部屋に跡を残していく。
蝶は次第に軌跡飲み込み、その大きさを変えていく。ついでとばかりに、妖精も食らい、湧き出る脳髄虫も食らって、食らい、遂には何もかもを食らった。
さて、彼は明るい、凄まじい防音を施された部屋で、一人座っていた。
既に彼には幻覚は見えない。見えないはずである。
摂取した薬物の数々は、既に体が抜け落ちているのだ。
しかし、彼は何かを極度に恐れ、体を縮こまらせていた。
……もしや、それは過去の自分の姿ではないか、と予想をする事はできるが、それも分かりかねる。彼は最早誰の存在も認知することはないのだから。