蛇
これは既掲載の「阿漕の浦奇談」の時代を超えた続きです。待賢門璋子が現代に生まれ変わってからのストーリーとなります。みなさんは転生輪廻をご存知ですか?同じ人間(魂)が何回も何回も名と身体を変えて生まれ死に生まれ死にすることを云うのです。では人はいったい何のために生まれ死にを繰り返すのでしょうか。おそらくそこには一回の人生ではカバーしきれない、その人なりの、時代を超えた命題があるからではないでしょうか。にもかかわらず一度死んで生まれ変わってしまうと、およそすべての人がその命題の「め」の字も忘れ果ててしまいます。それどころか前生とまったく同じような人生を、同じ過ちを何度でも仕出かしてしまうのかも知れません。この有り様と、しかしそこから少しでも脱しよう、進歩しようとする、時代を超えて人に内在されたもの(それは果してなんでしょうか?)を描きたくペンを起こしました。彼の西行法師の、今に残る和歌に啓発されて書き出したというのが、前作ともどもそもそもの所以でもあります。換言すれば六道輪廻からの脱出、真の出家の心とは?…が小説の命題となりましょうか。凡夫の私には過ぎた命題ですが、それゆえのカオスへ肉迫しようとする姿が、ひょっとしたらそこにあるやも知れません。笑いながらでもご教示がてらにお読みくだされば幸甚です。
詩・「蛇」(⇄〝へみ〟⇄〝かみ・蛇身・神〟)
闇に動くものあり。
地を這いて音もなく、滑り行き滑り来る。その云う様…。
な忘れそわれ神々しきもの。地を這うごとく汝が身の触れば、また異性と交わるに、
その触ればう悦び、汝が身の覚ゆればなり。
我こそは蛇身にして神なりき。いにしえ地に君臨せしもの。
外つ国に優りて我をあがめしは、日の本のそなたらにて違わず。
いま奇しき光を見、新しき世に向かうとて、
我を疎遠にすとは何事か。
我を経し来ざればそれ得べからざりしものを…
毛離(けが・穢)れて、身削ぎ(禊)をするなら、
我をも具しなむや、子ら。
本源のやすらぎに帰るような日々の睡眠に、人は夜ごと落ちるのだけれど、そして目覚めては身心を回復し、東雲を迎えるのだけれど、その直前、何かの隙をついて身心に入り来るものがある。目覚める直前の肉体に、分けてもその五官、触覚に、離れていた幽体が戻る時、いにしえからのものはそこに生じる隙を見逃さない。地面ならぬ人の身体にそれは這い来たり、触覚の喜びをともなって、すなわち我らが身にまとわりつく…。
古来サクラに人の姿と生き方をかけた思いや文芸作品が数多く存在しています。その走りとなったのはいつ頃だったでしょうか?奈良時代以前はサクラよりも梅の花のほうが人々により親しまれていたのです。花と云えば梅でした。それが仏教の隆盛とともに人の命の有り様や、そのはかなさ、そして因果などを理論的・体系的にとらえるようになり、豪華ではあるがその散り様のいさぎよさに、自分たち人間の姿をオーバーラップさせるようになって行ったのです。それにもっとも顕著だったのが西行法師です。花の歌人とも云えましょう。毀誉褒貶に翻弄され続けねばならない憂き世を捨てて、そこから引いて、一度‘死んでみた’、社会人としてのおのれを捨ててみたわけです。その時に始めて見えて来たものがあるはずです。そのことと、他方宮中での権謀術数や愛欲、おのが氏一族のしがらみに生きねばならなかった人、なかんずく受身的で弱い立場にあった女性たちもいたことでしょう。この両者、すなわち出家と在家の発端から未来にいたるまでの姿、その関係を追及してみたく筆を起こしました。在家のままで出家の本懐をもつらぬけるものでしょうか。それを追うにあたって、甚だ飛躍しますが彼のベトナム戦争時に起きたというひとつの出来事、それを記した伝説がありまして、名を「クワンティエンの伝説」というのですが、それを主題にからめてみました。この伝説というのは人間の女性と雄の黒猿に生じたかも知れない恋愛感情と、その関わりの行く末までを象徴的に描いているのです。人間を神、猿を人間と、一段階さげて考えてみた時に、この伝説は、これも至って象徴的なものとなる気がします。換言すれば前記出家と在家の関わりようともなるでしょう。これが主題ですが合わせて転生輪廻における人の持ち越すべき本懐と、過去世において生じてしまった他人への遺恨や負の遺産をいかに解消し、再結し直すか、これが両輪の方やの主題でもあります。美しきヒロイン、亜希子のありようともどもどうぞご堪能くださいませ。著者・多谷昇太より。