2 喜劇
わたしたちは琥珀色のあかりに包まれている煉瓦造りの駅のホールをとぼとぼと歩いて行った。黒猫は得意そうに鼻歌を歌っている。それは聴いたことがない奇妙な歌だった。
「ねこじゃらしの歌 きっと忘れてしまう 縁側の魚〜」
突然、誰もいない駅の中央にある円形のステージに、黒猫はひょいと飛び乗った。
「わたしは喜劇役者なのです」
そう言って自己紹介をはじめた黒猫を、わたしはおかしく思った。
「喜劇役者なら、なにか面白いことができるでしょうね」
とわたしが揶揄うと、かえって黒猫は得意そうにくるりと一回転して、こちらを見る。
「愉快に踊ることも、美声で歌うこともできますよ。落語をすることも、このステッキを宙に飛ばすことも……」
「そいつを是非、やってみてください!」
「それでは黒猫による華麗なパフォーマンスの始まりです!」
黒猫はステッキをくるりと一回ししてから真上に放り投げ、それがまた前足に綺麗におさめると、自分で投げたくせに、びっくりした表情をこちらに向けた。
「皆さま。どうも黒猫です。今日はとても良いお天気で。えっ、雨が降っておりますか。それはそれはそれではとてもよい雨で……風邪にはご注意を……」
わっはっは、とどこからともなく笑い声が響いてきて、わたしはぎょっとしたが、どうやら風の音のようだった。
「雨の日は転びやすいのでご注意を……いえいえ、転ばないように注意して歩くことです……やっ…それにしてもすごい雨だな」
そう言って、黒猫はステージの上をよたよたと一周する。ステッキを傘のようにさしている。水たまりを踏まないようにする道化。黒猫はあるところから足を滑らせて、その場に転びそうになる真似をした。見えない手すりにどうにか掴まり、滑る足を必死に動かしながらステージを動きまわる。山高帽をおさえる。風まで吹いてきた様子でステッキがすっ飛び、黒猫も飛びまわる。ふうふうと呼吸を乱す黒猫。滑って転んだ。まるでステージに油が塗ってあるようにさえ、わたしには見えた。
「上手い、上手い……」
「ええ、どうも。雨の日の猫という芸です。こんな芸当もできます……」
とステッキを鼻の上にのせて、まっすぐ立てた。
「実に見事なもんだね」
「猫もたまには棒を立てる、という芸です」
「無理やりだなぁ」
わたしは失笑したが、かといって悪くもないと思った。
「ええ。しかし、まあ喜劇役者じゃ食っていけないから、いつもは工場で働いているんです……」
「そうなのかい。まあ、色々ありますでしょうが、観衆を喜ばす、結構な芸だというのは確かですな」
とわたしはこの黒猫をひどく気に入って煽てた。黒猫もまんざらでもない様子で、ステッキでカツカツとステージを叩いている。
「これはもったいない御言葉。あなたはどんなお仕事を?」
と黒猫が尋ねてくるので、
「まあ、商業施設の接客業みたいなもんです。仕事を転々としていますが……」
と答えたが、だんだん苦しい気持ちになって、わたしは黙ってしまった。
「美しい街ですな」
と黒猫が言ったので、わたしは目を背けた。
「美しいと信じていましたがね……」
そう言った途端、先程のトイレの方からこんな苦しげな声が聞こえてきた。
「苦しい……苦しい……こんなに苦しけりゃ死んだ方がましだ……」
わたしはぎょっとしてトイレの方を見た。
すると、先程の清掃員の猫が、鼻歌を歌いながら、丸々と膨らんだゴミ袋をズリズリと引きずりながら出てきた。ゴミ袋は真っ赤に染まっていて、引きずった床の上には真っ赤なドロドロとした跡が残っていた。
「ああ。誰かがきっと……」
わたしは恐怖に取り憑かれて叫びそうになった。すると黒猫はステッキでカツンと叩いた。
「仕方ありませんな。まったくこの街はあのようなゴミにはいちいち構っていられない。どんどん掃き溜めが増えるんですよ……」
「そういうものですか」
「社会ってものはね……」
黒猫がそう言うので、それもそうかと思って、わたしは気にしないことにした。それもそうだ。社会がまわる以上はああしたゴミも出るのだろう。
「苦しい……苦しい……こんなに苦しけりゃ死んだ方がましだ……」
たとえゴミ袋からそんな声が聞こえたとしても、構ってはいられない。
「さあ、先へ急ぎましょう。博物館はもうすぐそこです……」
そう言って黒猫は、山高帽を目深にかぶって、先陣を切って歩いていった。わたしは風が冷たい気がして、襟に首を隠した。
薄暗いトンネルのような、煉瓦造りの駅舎から飛び出すと、外灯が赤々とともって、小さなわたしたちを照らしていた。
「ねえ、人間さん」
と黒猫が尋ねてきた。
「わたしは喜劇役者になんか向いていなかったんでしょうね……」
「どうしたのですか?」
「だって、あなたも笑っていなかったですよ」
「わたしは笑っていましたよ。こんなに大口を開けて……」
「そうか、そこが顔だったんですね。それなら安心しました」
そう言って黒猫は微笑むと、それでも、どこか寂しげな背中を見せて、わたしの前を歩いていった。