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1 猫駅

 わたしはその奇妙な博物館に招待状で招かれたのだが、それがどんな博物館かはわからなかった。

 有史以前の巨大な猫の化石を拝めるというその招待状の文面に魅了され、気が付けば、夜の闇に包まれてゆこうとする街を、電車内でゆすられながら一人眺めているのだった。


 わたしは鞄の中から一枚の招待状を摘み出した。招待状には「NEKOJARASHI MUSEUM」と記されていた。わたしはその愉快な名前に微笑んだ。


「なんて馬鹿な名前だ……。しかし馬鹿にされているようなこの気持ちの一方で、わたしはすでに虜になっている……」

 星屑のようなあかりのともった街を見下ろし、わたしは深いため息をついた。


 奇妙な出来事はすでに始まっていた。


 目の前に色のくすんだトレンチコートを着て、山高帽を目深にかぶった黒猫が座っていて、このわたしの顔を見てニヤニヤと微笑んでいる。わたしはそれを見て、ぎょっとした。

「あなたもあの博物館においでになるのですね」

 と黒猫は感心したように頷きながら言った。なんと猫が喋るものなのか、とわたしは自分の頭を疑った。


 わたしは冷や汗をかいて、しばらくハンカチを取り出そうともがいていたが、あまり長い間、返事をしないとおかしく思われると思って、黒猫の顔を見ると、

「ええ。招待されたものですから」

 と無愛想な返事をした。

「わたしもなんです」

 と黒猫はすかさず言うと、椅子から立ち上がり、わたしの座っている長椅子の方へとやってきて、くるりとまわって腰掛けた。


「でも、あなたは人間でしょ。人間があの博物館に訪れるなんて実に不思議ですねえ」

 と黒猫は面白そうに笑った。

「不思議ですか。でも本当にわたし、招待されたんですよ……」

 わたしは自信を失って、そういうと声が震えてきてしまった。なんとも情けない気持ちだった。


「いえいえ、意地悪を言っているのではありません。これはとても稀有なことだと申し上げたのですよ……」

 と黒猫はそういうと山高帽を外して、前足の上でくるりとまわした。倒れていた耳がひょいと立った。実に愉快な耳だったので、わたしはしばらく見惚れていた。それが黒猫にもよく分かるらしい。得意げに耳を動かしている。


 わたしはだんだんと気持ちが溶けてゆくようになって微笑んだ。自然と笑いが起こってくる。どこへ通じているとも知れない道をわたしは歩んでいることを忘れてしまったように。

「ああ、憐れだなぁ!」

 と突然、黒猫が叫んで、わたしを嘲るように見つめていた。

「なんです。何が憐れなんですか」

「あなたですよ。わたしはなんだかあなたがとても憐れに思えてね」

「わたしがそんなに憐れですか」

「いえ、わたしが思いますのは、この窓の外の街のあかりがとても美しいということだけですよ。ねえ、そうは思いませんか?」

 そう言われてみると、実に美しい夜景である。しかし話をはぐらかされたような気がした。


 わたしは窓の外を睨みつけると、

「狂気の沙汰だ」

 と叫んだ。

「何が狂気ですか」

「この世のありとあらゆるものが狂気だ。人間はこの美しい街に無惨なまでに押し潰されてしまう……。その時にこの街の美しさを信じた自分が心底、馬鹿馬鹿しくなるよ」

 わたしは自分の声が震えていることに気がついた。すると黒猫はにんまりと笑った。


「だから、あなたはあの博物館に招かれたのでしょう。ねえ、有史以前の巨大な猫の化石なんて拝んで、何になるのですか。珍しい古代の猫じゃらしの標本を見て、あなたはどんな気持ちになりたいのでしょうね。わたしは思いますよ。あなたが人間を嫌っていて、人間を呪っていて、人間に復讐したいということをね。だからあなたはきっとあの博物館に招かれたのでしょう」

 とあまりにも饒舌に黒猫が語るものだから、わたしは幾分、不気味に思った。


「さあ、電車は猫駅に到着しますよ……」

 黒猫がそう言ってすぐに、わたしたちを乗せた電車は、二階建ての建物の中へと入っていった。窓の外が真っ暗になり、琥珀色のあかりがぽつぽつと続いているホームに滑り込んでゆくのだった。色の汚れた看板には鼠の落書きがしてあって、そこに「猫駅」と記されていた。


「この街には猫しか住んでいないのかい?」

「猫と鼠が……」

 と黒猫は言うと、山高帽をかぶって立ち上がった。そしてステッキでカツカツと音を立てて、歩き出した。

 わたしは黒猫と共にホームを歩いた。わたしは突然、尿意をもよおしたので、

「すみません。トイレに行ってきてもよいですか?」

 と黒猫に敬語で尋ねた。いつのまにか初対面の黒猫に敬語を使わなくなっていたのがひどく失礼な気がしたからだった。黒猫は振り返ると、静かに頷いて、ステッキで煉瓦造りの壁の丸い穴を示した。


 わたしはトイレの個室に入って用を足すと、体が楽になったからだろうか、妙に安心した心地になって、ため息をつき、荷物をまとめて個室から出ようとした。

 すると隣の壁の向こうからなにか苦しげな声が聞こえてきた。

「苦しい……苦しい……こんなに苦しけりゃ死んだ方がましだ……」

 そして壁に爪をたてて引き裂こうとしているかのような嫌な音がじりじりと響いてきた。


 わたしはぎょっとしてその白い壁を見つめた。また同じ言葉が繰り返される。

「苦しい……苦しい……こんなに苦しけりゃ死んだ方がましだ……」

 そして、それは苦しげな呼吸の音に、そして呻き声に変わってゆく。

「死んでしまった方が楽みたいだ……アア…アアアアアアア……」

 血を噴き出しそうな叫び声がぶつぶつと響いている。


 わたしは意を決して、便座から立ち上がり、隣の個室へと走っていって、ドアを開いた。そして「大丈夫ですか!」と叫んだのが早いか、それとも絶句したのが早かったかわからない。

「あ……」

 その個室はたった今、流れ出たような美しい鮮血で床が赤黒く染まっていた。その真ん中に人間の中指のようなものがひとつ、転がっている。

「これは……」


 わたしは真っ青になってガタガタと震えた。ここで何が起きたのか、何もわからなかったけれど想像すると背筋がゾーッと冷たくなった。

(誰か呼ばないと……)


 すると清掃員らしい猫が入ってきて、わたしの背後から中の様子を覗き込んで、

「ああ、ご心配いりません。ただのゴミです……」

 と言った。猫は、落ちている指をひょいっと便器の中に放り込んで水に流してしまうと、モップでせっせと床を磨きはじめた。


「ゴミですか。なにか叫んでいたようですが……」

「そういうゴミもあります」

 と言って、その清掃員の猫はまるで気にもしていない様子だったので、わたしも今まで騒いでいたことに羞恥心を抱いた。


(なんか、おかしなところだな……)

 わたしはトイレから出て、腕組みをして柱に寄りかかっている黒猫に謝った。

「ずいぶん長いトイレでしたね」

「いえ、なんだか、わたしの勘違いだったようです」

 とだけ言って、わたしはそれ以上、何も言わなかった。

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