恋と眼鏡とコンタクト ときどきウルトラセブン
陽光が差す。目が覚めた。起きなくてはならない。今日は出勤日だ。
どうしようもないほど嫌じゃない。僕なんかより大変な思いをしている人はたくさんいる。
その証拠に布団から体が起き上がる。しかし、ここから先に進むには気合いを入れるための儀式がいる。
枕元には眼鏡ケースがある。一度新調したてのチタンフレームの眼鏡をむきだしのまま枕元に置き、寝起きに思い切り踏んづけてパーにしたことがあるのだ。
それ以来、どんなに疲れて帰ってきても、どんなに酔っ払って帰ってきても、必ず眼鏡は眼鏡ケースに入れて寝る。眼鏡ケースに眼鏡を入れた途端、その場で力尽き、崩れ落ちて寝ることもあるが。
さて、儀式だ。両目とも裸眼視力0.1の僕。眼鏡ケースから眼鏡を取り出し、装着する。
その時に……
「でゅわっ!」
一声出して気合いを入れる。さて、これで何とか今日もやっていけそうだ。
ご存じの方には何を今更の話なんだが、この儀式、伝説の特撮番組「ウルトラセブン」の変身シーン。森次晃嗣さん演ずるモロボシダンがウルトラアイを装着し、ウルトラセブンに変身する時のシーンのまねっこだ。
もちろん周りに人がいたら恥ずかしくて出来ない。ちなみにこの僕、今年で一人暮らし七年目の二十九歳。その間彼女とかいたことなし。周りに人がいる心配全くなしっ! ちくしょう。
まあ男友達と家飲みして泊めることはある。その時はさすがに恥ずかしくて出来ないけどね。
さて、出勤するとするか。朝食はパンと牛乳で済ませる。洗面歯磨き整髪する。
髪の毛はこれはもう見事な真っ黒な剛毛。全然染めてません。かと言ってこち亀の両さんのような角刈りではなく、まあ普通の髪型。男友達は「とっちゃんぼうや」と言うが。
何でこんな話となるかというと最近ネットで盛り上がっている話題のことがある。
曰く「二十歳過ぎて黒髪眼鏡の男は差別してよい。恋愛に関する意欲が感じられない」とのこと。
二十代の女性のこの投稿は、当然のごとく炎上したが、結構賛同も多かった。まあ一つ言えることは二十九歳黒髪眼鏡の僕は全くもってモテないという厳然たる事実があるだけだ。
だったら髪の毛を染めたり、眼鏡をやめてコンタクトにしたらどうなんだという話になるけど、そこまではしたくない。
モテないことは哀しいが、何が何でもモテるために努力をするかと問われれば、そうはしない。
それが僕なのである。
◇◇◇
「職場が楽しくないのなら何故職場に行くのだ?」
というCMもあったが、職場はやっぱり楽しくはない。ただまあ七年もやっていると良くも悪くも慣れてはくる。課長が僕に説教し、部長のところに行って「自分が受け持ったところはうまくいってるんですが、部下がやっているところはどうも駄目で」と言うのにも慣れた(実際の担当は逆なんだが)。
手持ち分は順調だし、昼はまた独身男衆でその辺の食堂に食いに行くとかだろう。ドラマだと食堂で可愛いお姉さんが給仕してくれたりするのだが、どこへ行っても全て「おふくろさん」だ。もっとも可愛いお姉さんが僕を好いてくれる当てもない。
とは言えまだ十時だ。給湯室でコーヒーでも淹れてくるか。我が社は上司はセコいがコーヒーくらいは自由に飲める。
そして、給湯室に行くと先客がいる。別の人がいることは珍しいことではない。珍しいことではないがっ!
これはやばい。中にいたのは女の子だ。しかも下を向いている。泣いているのか? このまま立ち去ると僕が泣かしたとの冤罪になる可能性もある。
そのうち、彼女は僕の存在に気づき、顔を上げた。
次の瞬間、僕には何が起こっていたか分かった。
「コンタクトが合わないんだね?」
そう、彼女の左眼は真っ赤だった。眼の充血と言うと血走った眼を想像する人もいるだろうけど、体質的にコンタクトが合わない時は真っ赤になることもある。
え? 僕もそういう体質だから分かったのかって? 残念ながらそうではない。学生時代の友人に二人ほど同じ症状が出たのがいたのだ。もちろん二人とも「男」だっ!
そして、この僕がコンタクトをしない理由だが、体質が合わないからではないっ! 眼の中に物を入れるのが怖いのだ。要はビビりなのである。
いや今はそんなことを言ってる場合じゃない。眼は大事。
「コンタクトは外した方がいいよ」
「でっ、でも……」
眼の痛みからか彼女は涙ぐんでいた。
「私、強度の近視なんです。コンタクトなしでは仕事が何も出来なくなってしまうんです」
「うーん。僕の友人にもコンタクト使ってる奴いて、みんな眼鏡も持ってるけど、持ってないの?」
「持ってます。でも……」
彼女は涙ぐんだままだ。
「部長さんが女の子なのに眼鏡をかけているのはやる気が感じられない。そういう子はちょっとねって言って」
「ああっ」
僕は理解した。改めて見ると彼女は新卒の新入社員のようだ。二十世紀昭和バブル脳の自称モテモテのあの部長の言うことを全部真に受けちまったか。
僕は一息ついてから続けた。
「部長は男の僕にも『眼鏡なんかかけてる奴は女の子にモテない。女の子にモテない奴は仕事も出来ない』と言ってるからね。でも僕はずっと眼鏡かけてるし、とりあえず『東根の奴もかけているからいいと思った』と言えばいいよ」
「あ」
彼女は顔を上げ、僕の顔をしげしげとながめる。
「そう言えば東根先輩、眼鏡ですよね」
「ああ、ビビりで眼の中に物を入れられなくてね。それじゃモテないと各所から言われているけど、怖いものは怖い」
「プッ」
彼女は吹き出した。
「まあとにかく眼を真っ赤にしてまでコンタクトを入れてるのはよくない。外して落ち着いたら、眼鏡かけて仕事に戻ればいい。何か言われたら『東根なんか眼鏡かけて七年もこの会社に居座っている』と言えば」
彼女は笑顔のままだ。
「そういうわけにもいきませんが、勇気が湧きました。眼鏡かけて仕事頑張ります」
まあ何にしても良かった。さて、僕も仕事に戻るか。
「あの……」
「おや何か他にも困りごとが?」
「今日一緒に帰ってもらえませんか? やっぱり急にコンタクトから眼鏡に変わると目立つので、東根先輩が隣にいてくれればあまり目立たなくなると言うか……」
「まあそんなことでよければ全然いいですよ」
「良かった! 東根先輩、南町ですもんね。私のアパート通り道ですよ」
「それは良かった。やっぱり回り道はしたくないからね」
ん? 何で僕が南町に住んでるって知ってるんだ?
◇◇◇
彼女はそれからもずっと眼鏡だった。やっぱりコンタクトは体質に合わないのかな。部長が「眼鏡の女の子はうんぬん」言ってたのを気にしていたら気の毒だが、さすがに管理職にもあそこまでの二十世紀昭和バブル脳はそうはいない。出世志向が強いから、そう遠くないうちに異動になるだろう。
仕事中の彼女は眼鏡をかけたまま普通に周囲の女子社員と話している。良かった。孤立してるわけではないようだ。
何か周囲の女子社員がちらちら僕の方を見て笑ってるなあ。まあ彼女に眼鏡のこと言われたら、僕もやってるとか、僕は七年もこの会社で眼鏡かけてると言えばいいと言ったから、素直な子だし、言ったんだろうなあ。まあそれで丸く収まってんならいいや。
と僕は思ってたんだが、ちょっと違っていたことがすぐに分かった。
◇◇◇
「東根―っ、おまえ、新入社員の柴橋ちゃんのことどう思ってるんだ?」
いきなり二人の男友達兼同僚から聞かれた。
「どう思ってるって、明るくて素直でいい子だと思うぞ」
一人の男友達兼同僚が僕の目を見据えて言う。
「それだけか? 東根?」
「他に何があるのだ?」
「東根、おまえなー」
もう一人の男友達兼同僚が右手の平を額に付け、上を向く。オーマイガッか?
「おまえ、柴橋ちゃんが東根に好意を伝えてるのが分からんのかっ? 端で聞いてる俺たちにだって分かるぞっ!」
「そっ、そうなのか?」
「まあこういう奴なんだよなあ。それが東根のいいところでもあるんだが」
二人の男友達兼同僚は顔を見合わせる。
「ともかくっ!」
二人の男友達兼同僚は今度は僕に顔を近づけてくる。うわあっ。
「あんまり東根がニブチンなので、あれじゃ柴橋ちゃんが可哀想だという苦情が女子社員のみなさまから俺たちの方に来てるんだ。東根、可及的速やかになんとかしろ」
◇◇◇
そう言われてもなかなか踏ん切りがつかず。柴橋さんはいつもとおり明るく話しかけてくれるけど、なんだか僕は上の空。
そうこうしているうちに柴橋さんのアパートの前まで来てしまった。これはいかん。
「あの……」
僕の動揺が伝わったか、柴橋さんは不安そうに僕を見る。
「東根先輩。何かあったんですか? 元気ないですよ」
いかんっ! いかんっ! いかんいかんっ! いかーんっ! 新入社員の女の子を不安にさせてどうするんだっ!
「東根先輩」
わあっ、柴橋さんが僕の眼を見据えてきた。
「先輩には私がコンタクトのことで本当に助けてもらいました。他にもいろんなこと知ってて、仕事も出来るのにちっとも偉ぶらなくて尊敬してます。そんな先輩が何か悩んでいるなら力になりたいんです」
え? 僕ってそんなに立派? 誰か他の人と勘違いしてません? じゃなくてこんないい子に思われてるとは。よしっ、行くしかないっ!
「柴橋さんっ!」
「は、はい」
「僕はネット上で差別しても良いと言われている二十歳過ぎての黒髪眼鏡です」
「は、はあ」
「部長には女の子にモテない奴は仕事も出来ないと言われています。だけど、モテようとする努力もまるでしてません」
「えっ、えーと、仕事が出来ないということもないかと」
「そんな僕ではありますが、よろしければ正式にお付き合いしてください」
頭を下げて右手を差し出す。もっとスマートなやり方があるじゃないかなと自分でも思う。しかし、別の方法なんて知らないし、思いつかない。
「ふっふふふふ」
柴橋さんは笑いました。
「やっぱり変な人ですね。東根先輩は。でもそんな先輩が好きになっちゃったみたいです」
柴橋さんは僕の手を握り返してくれた。
「ふぃー」
「どうしました?」
「何だか一気に緊張から解放されて力が抜けた」
「ふふ。何言ってるんですか。私だって緊張してましたよ」
◇◇◇
朝、目が覚めた。気分は悪くないが、ここは一つ気合いを入れていこう。枕元の眼鏡ケースから眼鏡を取り出して……
「でゅわっ!」
「あっ、あははは。何なの? それー」
そうだった。もう一人暮らしじゃないんだった。男友達を泊めた時と違い、彼女と一緒にいても、緊張感がなかったようだ。
「うむ。これはだ」
僕は咳払いを一つしてから話し始める。
「伝説の特撮番組『ウルトラセブン』の変身シーン。森次晃嗣さん演ずるモロボシダンがウルトラアイを装着し、ウルトラセブンに変身する時の……」