8.少女の「決意」
ドアがノックされ、まどろんでいた意識が覚醒する。時計を見れば、もうすっかり夜になっていた。
こんな時間に部屋に来る人間は一人しかいない。クラウディスが帰って来たのだろう――飛び起きて、キアは相手を確認しないまま部屋のドアを開いた。
緑がかった金の髪と蒼の瞳が、視界に飛び込んでくる。その姿に、ほんの少し違和感を覚えた。
ここを出ていくまでの彼女にあった、不安そうな気配がないからだ。
「――あ、えっと……ルカって人には、会えたのか?」
一瞬停止していた思考を振り切り、今日の目的の如何を問う。はっきりと、はいという返事が返って来た。
「ペンダントも渡してきました」
よかったな――そう言って微笑むと、クラウディスも微笑む。それから、くるりと背を向けた。
訝っていると、クラウディスは階下に見える出口を示した。
「――少し、散歩しませんか?」
クライストの街並みは、夜でも明るかった。煌々と明かりをともす石の街灯は、クライスト領ならではの「陣術」という技術が関わっているのだという。
魔術の一つらしいが、キアはそういった事にはあまり詳しくない。レディエンス暮らしの長かったクラウディスも、陣術は未知の領域のようだ。
街の人間から聞くに、素質がなくてもある程度は使える魔術のようなもの――との事なのだが。
「――レディエンスは、街灯があってもあまり明るくなかったわ。代行者が仕事をしづらいからって、専らの噂だったけれど」
それもなかなか不思議な話だが、噂なんてものは所詮はこじつけに過ぎない。キアからすれば、暗い場所で戦う方が余程面倒だ。
「……」
会話がいきなり途切れてしまい、暫く無言のまま歩き続けた。中央広場からさほど遠くない大きな公園に辿り着くと、そこにはまだちらほらと人が居た。
「――あのね、キアさん。わたし、お城にある神殿で働かせてもらう事になったんです」
唐突に、振り返ったクラウディスが微笑みながら告げた。――よく考えれば、命を狙われた彼女にはもう帰る家がないのだ。レディエンスなんかに帰ったら最後、すぐに代行者の餌食になるだろう。
そう考えると、ルカと言う男は彼女に対してしっかり気配りをしたという事だろう。ほんの少し安心して、二度目になる「よかったな」を呟いた。
「……キアさんとの、約束も――彼に、お願いしました。神殿に居る研究員の方々に、診てもらえるそうです」
約束――そんなものがあった事を、一瞬忘れていた。クラウディスと共に旅をすると決心したあの日、自分の身体からあふれ出した光。一瞬にして、到底自分の叶わないはずの相手を倒していたすさまじい「なにか」。
クラウディスは魔力の類だというが、それが本当に何なのか――キアには解らなかった。解らないからこそ、それを解明するという目的も含めて彼女の旅に同行したのだ。
ありがとうと礼を言えば、クラウディスははにかんで笑う。自分にはこれくらいしかできないからと囁いて、それから俯いた。
「――クラウディス?」
帰って来てから初めての、不安そうな姿。それを見て、自分まで不安になるような気がする。今まで気丈に振る舞っていたのかもしれない――けれど、それにどんな言葉をかければいいか解らない。
「――あのペンダントの中身が何なのか――きっと、気になったんじゃないでしょうか」
彼女の運命すら変えてしまった、赤い水晶のペンダント。その中に何が納められていたのか、気にならないはずはなかった。しかし、頷いて帰ってきた返事は「わたしにも解らない」。
「ルカさんは、あれが世界すら滅ぼしてしまうものだと言っていました。わたしは、幼いころから双子の姉と一緒にあのペンダントを隠し持っていたんです」
淡々と、彼女は語り始める。双子の姉が、代行者の手にかかってしまったこと。それから、ずっと逃げてきた事。そして、あのペンダントに触れられる人間は、自分を含めてごく僅かだという事――。
クラウディスの両親が亡くなって数日後、彼女とその姉の前に現れたのがルカだという。それまで両親が預かっていたペンダントを二人に渡し、聡明な姉に「絶対に誰にも見せるな」と強く命じたそうだ。
途中から、クラウディスの声が震えているのが解った。しかし、背を向けている彼女の表情は伺いしれない。
姉の死を乗り越えて、この街までやって来た――彼女はどんな思いで、今まで旅をしていたのだろうか。
「……ここで暮らす事は、きっと幸せなことだと思います。レディエンスより治安は良いし、仕事だってちゃんとある。古い知り合いも一人いる。……けど、どうしても違和感があるんです」
ようやく振り返った彼女の表情は、泣くのを堪えているような寂しそうなもので。
「わたし一人じゃ何もできないのは、解ってるんです。けど、けど――」
「代行者から隠れて、静かに暮らすのは嫌……って事?」
俯いて、クラウディスは何度も頷く。これまでの長いようで短い付き合いで、彼女の人となりは理解しているつもりだった。目の前で起こった事を、最後まで見ずごせない優しい少女――それが彼女だ。
そして、誰よりも臆病で怖がりだ。人に嫌われる事も、誰かを傷付ける事も恐れてしまう。それは、人として当然のことだとキアは思っていた。
「……死んだ姉は、聡明で、気の強い人だったんです。優しくて、いつもわたしを励ましてくれて。レディエンスから逃げる時も、必死に守ってくれて――。あの人なら、きっとこんなふうに悩んだりせずに自分の思うままに動くんだろうなって。だけど、わたしにはそれが出来ないんです」
臆病で、逃げるしか出来ない自分なんかより――そう言って傍のベンチに座り込むクラウディスに、キアは何とも言えない思いを感じ取る。
きっと、誰かを失うという気持ちはとても重たくて悲しい事なのだろう。何も失った事がない自分にも、少しくらいその気持ちが理解できない事はない。遠い故郷の両親が、目の前の少女が、今までに知りあったすべての人が急にこの世から去ってしまったら――それは、耐え難い苦痛だと思う。
「――怖くない人はいないと思うよ」
ぼそり、想いのままに呟いた。甘えた生活をしていた自分が、そんな事を言うのは滑稽かもしれないが。
「俺は、君があのアルトっていう代行者に殺されるのが怖くてたまらなかった。君も、あいつに近寄った時怖くてたまらなかったろ?
お姉さんも、きっとそうだ。君を守ろうとした時、きっとすごく怖かったと思う。だけど、それ以上に君の事が大事だったんだよ」
怖い――その気持ちなら、きっと共感できる場所がたくさんある。思いのままに告げた言葉は、少女の涙で返された。
「お姉さんを、真似しようなんて思わなくて良いよ。君は自分が出来る事を、周りと協力してやればいい。一人で頑張るなんて、誰にでも出来る事じゃないんだから」
ほんの少し、もうちょっと頼ってくれてもいいんだよという気持ちを込めて囁いた。ずっとずっと、一人で頑張って来たのだから――ちょっとくらい甘えたって良いじゃないか。
少女の蒼い瞳が、さらに潤む。それから、泣きながらも笑顔が返された。