10.蛇と悪魔
それは、およそ並の人間には理解し難い光景だった。
うねうねと、無数に揺れる蛇――それを宿すのは黒髪の、整った顔立ちの青年。全てが蛇と言うわけでない黒髪が片目を隠し、光の薄い暗黒の瞳が狂気の色を帯びている――近寄ってはいけない、誰もがそう思うような存在だった。
「な、なんなんだ、お前は――」
キアのその気持ちを代弁したのは、図らずもそれまで戦っていたはずの代行者だった。理解を越えた「人ではないもの」に、彼らでも怯える事があるのか――。
「よくぞ聞いてくれました、なんて言うと思ったかい?凡人め」
腰を抜かして後退する男には目もくれず、青年は目を細めてキアを見つめる。どこか、懐かしいと言いたげな瞳はその時だけは邪悪さの欠片も感じられない。
「随分と脆い姿になってしまったものだね」
顔を近づけられ、不覚にも動けなくなった。髪から頭を出す無数の蛇すらどうでも良いくらいに、恐ろしいものを感じる。
危険だ――、逃げないと――。
思っても、動く事が出来ない。まるで金縛りにでもあったかのように。
一体どれほど見つめられていたのだろう、青年は不意に顔を上げて場違いなくらい優しく微笑んだ。
「――どうやら、なんにも覚えていないのか。それはそれでつまらないものがある」
くつくつと笑いながら、青年は片手を上げる。その手の中に魔力と思しき光が収束し、雷のようなプラズマを発生させる。一目でそれが、危険なものと言う事を理解した。
「――う、うわあああっ!」
背後で、叫び声が上がる。代行者の声――そして、目の前の青年の恐ろしいくらい美しい微笑み。瞬間、彼が何をしようとしているかを理解した。
「やめろ――!」
「どうして?あいつは邪魔なんだろう?」
掴みかかって止めれば、青年は無邪気に微笑む。その眼は、やはり狂気に満ちていて――。
「幾ら悪人でも、殺すのはよくない――君らしいね」
ふっと目を細め、青年は手の中の光球を容赦なく放り投げる。止める間もなくそれは、キアの横をすり抜けて代行者へと突き進んでいく。
――ドクン、と心臓が跳ねた。
自分の知らない誰かが、あれを止めろと――
「やめろ――!!」
自分の身体の奥の方から聞こえてきた声と呼応するかのように叫んだ、その瞬間――視界が真っ白に染まった。
気がつけば、いつ何をしたのか――怯えた目でこちらを見上げる代行者の姿があった。
生きている――それを確認し、次いで「また」、無意識のうちに「何かやった」事に気が付いた。
ぱちぱちと、背後から拍手の音。ゆっくりと振り向けば、蛇を従えた青年が手を叩いている。
「お見事、お見事。――けど、随分と不完全なんだね。これはこれで面白い――」
先程から彼が言う、不完全だとか脆い姿だとか――一体、何だというのだ。どう見ても顔すら知らないこの青年が、一体自分の何を知っているというのか。
理解できない事が多すぎる――それ以上に、この青年が危険な事は痛いほど痛感した。恐らく、自分では手に負えないレベルの相手だ。
「――見つけたわ!」
唐突に――今日は唐突な事が多い――、少女のような声が割り込んできた。一体どこから――その疑問に答えるかのように、上空から人が降ってくる。
低い木しか存在しないこの公園で、どうやって――?
その疑問が解決される事はなかったが、飛び降りてきた人物は紛れもなく少女だという事が解った。歳はクラウディスくらいだろうか、草色の髪を黒いリボンで飾った、可憐と言う言葉が相応しい少女。彼女は自分の方には目もくれず、蛇の青年を睨みつける。
「もう、逃がさないわ――貴方のためにも、これ以上はこの世界に干渉しないで」
少女の両手から、黒い――しかし光る塊がバチバチと唸りを上げて膨れ上がる。ついていけない会話と展開に、今度は唖然とするしかなかった。
「――お、おい、坊主、逃げた方が良いぜ――あいつら、魔族だ!」
すっかり腰が抜けたらしい、震えた声で背後の代行者が叫ぶ。恐らく自力で逃げ出す事が出来ないのだろう、命が惜しいと恨んだ相手にも好意的になれるもんだ。
「魔族って、なんだよ」
「し、知らなくて当然だ……あいつらがこっちに現れる事なんざ、滅多にねぇ――なぁ、頼むから逃げようぜ」
彼には先程の自分と青年の会話は耳に入らなかったらしい――が、そんな未知の相手に知り合い面をされたキアとしては、逃げる以上に何故という気持ちが強い。
勿論、逃げるという選択肢もしっかりと頭の隅にはあった。背後で怯えきっている代行者は心底どうでも良い気分ではあるが、放置するのも良いとは思えない。
「――あなたたち!さっさと逃げちゃいなさい!」
驚く事に、逃げる事を勧めるのは代行者だけではなかった。今し方姿を現した少女に叱咤され、はっとする。
――そうだ、逃げなければならない。クラウディスや、先程公園から出て言ったもう一人の代行者の事も気にかかる。
「早く!」
急かすような、少女の声。半ば仕方なく代行者をひきずって、キアはその場から全力で逃げ出した。