第六章「セイレキ二〇一一年~気仙沼その二」
第六章「セイレキ二〇一一年~気仙沼その二」
わたしとヴェドラナは逃げていた。
後ろから迫ってくるのは、黒い塊だ。
そう。あのこわい津波という現象を、わたしはもう黒い塊としてしか思い出せない。
セイレキ二〇一一年。三月十一日。
ユーレさんが通っていた障害者施設で大地震の本震にあったわたしとヴェドラナは、わたしがお父さんとお母さんから地震の時の津波のことを聞かされていたこともあって、すぐに高い方に向かって避難しようと思ったのだけれど。
施設の人をバスに乗せて逃がすのを手伝ったり、体が不自由なユーレさんを移動させる準備をするので、時間がかかってしまったわ。
施設を出た時には、もう街の三分の一くらいが黒い塊に飲みこまれていた。
わたしたちは、走った。走った。
でもまずいことに、わたしは逃げる途中で足をくじいてしまった。
ただでさえ運動能力がないのに、もう、走ることができない。足をひきずって歩いていては、間に合わない。
ヴェドラナは、遅れるわたしを振り返ったのだけれど。
ヴェドラナは体が不自由なユーレさんを背負っていたので、これ以上誰かを助けることはできない。
わたしは糸で、ヴェドラナに「行って」と伝えたわ。
その頃のわたしは、自分で自分にダメ出しをしていて、わたしには価値がないと思っていた。
だから、この中で一人死ぬんだったら、わたしだと思っていた。
糸から、ヴェドラナの逡巡が伝わってきていた。
ヴェドラナは、ユーレさんとわたしの間で、本当に胸が張り裂けそうになっていた。
やがて、ヴェドラナの心がユーレさんに向いて、彼女がわたしに背を向けるしかないと決断しようとした、まさにその時。
颯爽と。
――「あの人」は現れた。
わたしは、自分が宙に浮いているのが不思議で、最初何が起こったのか分からなかった。
徐々に、誰かがわたしを運んでくれているのだと理解した。
ラグビーというスポーツは知ってる?
体が強くて大きな人たちが、ラグビーボールを脇に抱えて走ったりするわ。
「あの人」、わたしをラグビーボールみたいに脇に抱えて、全力で走っていたのよ。
わたしが助けられたのを見て、ヴェドラナもすぐにまた走り出したわ。
「あの人」は速かった。
「あの人」は力強かった。
迫りくる黒い塊を置いてけぼりにして駆け抜けて、あっという間に丘の上の公民館まで辿り着いたわ。
「ここの屋上に避難するのが、現状ベストだと思うぞーう」
わたしは、「あの人」を見上げた。顔が、今でも思い出せない。男の人だったのは覚えているけれど。背が高くて、強い体をした人だったわ。
「どうして……」
あの頃のわたしはバカだった。自分に自信がなさ過ぎて、こんなことを尋ねてしまったわ。
「わたしなんかを、助けたの?」
それを聞いた「あの人」は、フッフって笑い飛ばして。
掌を右目にかざしてから、右腕を横に振り抜いて、体をちょっと斜めにした。
大仰なポーズをとって、「あの人」はわたしに向かって答えたわ。
「人助けに、理由が必要かい?」
わたしは、言葉を失ったわ。
この状況で、バカなのかなって思ったけれど。
それ以上に。
正直、カッコ良かったわ。いい年した男の人が中二病のポーズをとっていても、わたしの歴史上、一番男の人がカッコいい瞬間だったわ。
「さーて。津波がここまでくる前に、もう何人かは運べそうだぞーう」
そう言って、「あの人」はくるっと振り返って、黒い塊が迫っている街に向かって引き返して行ってしまった。
その後、わたしは「あの人」には会えていない。
色々落ち着いてから、探してみたんだけど、今でも名前も分かっていない。
「あの人」が何者だったのか、全然分からないんだけど。
この世界のどこかに、「あの人」はいる。
今でも、そんな気がしているの。
/第六章「セイレキ二〇一一年~気仙沼その二」・完
第七章へ続く




