続く悪夢
何かの気配を感じて、ふと目が覚めた。
引っ越した日の夜だった。
1DKのアパートは築三十年を超えているが、リフォーム直後で清潔感がある。駅から徒歩十五分だが、自転車があるので気にならず、賃料も安めだったので即決した。
荷物は明日の午前に届く予定で、今、私は事前に運び込んだ布団のみが敷かれたフローリングに横たわり、朝を待っていた。
時計を見ると、深夜を回った午前一時だった。
夢を見ていた気がするが、覚えていない。
あまりよくない夢だった気がするので、それで目が覚めたのかもしれない。
私は気配の正体を探して、布団に横たわったまま部屋の一部に視線を走らせる。
私の視界には、壁紙を張り替えたばかりの壁が見えている。
巾木も新品で、ホコリもまだ積もっていない。
フローリングはピカピカに磨かれている。
私は寝返りを打った。
にわかに、視界にクローゼットの戸が飛び込んでくる。
細く開いていた。
おや、と思う。
寝る前、あの戸は確かに閉まってはいなかったか。
たてつけが悪いのか、私の記憶力が悪いのか。そう思って見つめていると、戸の隙間がどんどん大きくなっていく。
クローゼットの戸がひとりでに開いていくのだ。
私は息をのんだ。
風だろうか。
クローゼットに隙間があって、中から風が吹き出すせいで、戸がひとりでに開くのかもしれない。
それならば放っておけばいいのに、私は慌てて起き上がり、クローゼットの戸を閉じた。
ドン。
戸の内側から、叩くような衝撃がある。
私は悲鳴をあげかけた。
とっさに飛びのくと、クローゼットの戸はまたゆっくりと開いていく。
私がお守りか何かのような気持ちで、電灯からぶら下がっているペンダントライトの明かりをつけた。
その間に完全に開き切ったクローゼットの中には、私の張り詰めた恐怖心をあざ笑うように、何もない。
では、今の衝撃は上の階の住人が、クローゼットを乱暴に閉じたかなにかしておきた衝撃なのかもしれない。
私はクローゼットを開け放したままにすることにした。
振り返ると、そこには窓ガラスがある。
引っ越しの荷物が届いていないので、カーテンもかけていない。
明るくなった室内から、暗い屋外の様子は見えない。
窓ガラスに反射して、私と、私の部屋が映っている。
そして私の背後――クローゼットの中。
首をつって左右に揺れる男の姿があった。
その目は私を凝視している。
私はクローゼットを再び肉眼で確認することができないまま、体一つでアパートから飛び出した。
靴をつま先につっかけて、階段を猛スピードで駆けおりる。
とにかく人のいる場所に行きたくて、近所のコンビニに駆け込んだ。
パジャマ姿で駆けこんできた私の姿は、さぞかし異様だったに違いない。
レジに立っていた大学生と思しき女性は、私を見て軽く会釈した。
「……あの」
私は声を上げかける。
けれど、なんと言ったらいいかわからない。
もごもごしている私に、店員は答えた。
「森ハイツの人ですか」
私はぎょっとした。
その通りだったからだ。
「みなさん、ここに駆け込んでこられます。〟クローゼットで人が首をつってる〝って」
「でも、事故物件とかじゃ……」
「首吊りがあったのは十年以上の前ですし、そのあと何人も借り手がついてるんで、もう告知義務はないんです。リフォームもしてありますし」
「そんな……」
「電話、お使いになります?」
携帯を置いてきてしまった。
私は震える手で友人に電話しようとして、電話番号を暗記していない事に気づく。致し方なく、唯一覚えていた実家に電話をかけた。
十回のコールで、おびえた様子の母が出る。
「お母さん、私、今からそっちいっていい?」
母は泣いていた。
「もう娘は死んだんです……! こんなイタズラ、いい加減にして!」
ぽかんとして、私は店員に振り向いた。
店員はついと首をさらして見せる。
絞められた赤黒い跡があった。
ぼんやりとそれを見ているうちに、店員の首はぐにゃりと曲がり、長く皮膚が伸びて床に転がる。
私は無言で受話器を置いた。
途端に、私はその場にぐずぐずと崩れ落ちる。
両膝の骨が折れていた。
部屋から飛び出して、靴をつっかけた状態で階段を駆け下りて、落ちたのだ。首の骨を折っての即死だった。
「……どうしよう」
私は言った。
「どうしようも」
店員は答えた。
――ふと、私は気配を感じて目を覚ました。
夢を見ていた気がするが、よく覚えていない。
寝返りをうつと、クローゼットが細く開いていた。