幸福な死
拝啓。私の大切な君へ。
こうして手紙を書くのは、少しだけ照れ臭い。
けれど君がこれを読んでいるとき、私はもうこの世にいないだろう。私の気持ちを、どうか最後に君に知ってほしい。
ずっと、幸せに死ぬことが私の夢だった。
人に言うと奇妙な顔をされるが、結局のところ人間などみな、最終的にはそこを目指して生きているのではないかと思う。
幸せだったと、満足して満ち足りた気分で死んでゆきたいから、今生の苦しみも耐えられるのではないかと思う。
しかし、では幸せとはなんだろうか。
幸せは金で買えるものではないという。
しかしお金があれば大体の不幸は振り払えるという。
不幸は幸せの対極にあるのだから、とりあえずそれを振り払えるだけの力はあるにこしたことはないだろう。
ならばと思って仕事をこなし、皮肉にも心を壊し、体を壊した。
同僚が首を吊ったことを思えば、我ながらよく生き延びたと思う。
だが私は死にたくなかったのだ。
心無い連中に傷つけられ、虐げられ、稼いだ金は入院費と治療費に消えるだけ――そんな風に死んでいくなんて、あまりにも耐えられない。
私にはまだ若さがあった。
生きようとする力があった。
壊れた心と体にツギをあて、社会に対する恐怖を呑み込み、見つけた仕事は退屈だが穏やかだった。
心と体を差し出さなくても得られるだけの金銭を、毎月ありがたく受け取った。
時折ささやかな贅沢に、思い切り奮発しておいしい豚肉などを買い、自宅で一人しゃぶしゃぶをしたりする。
満たされた腹をさすって、六畳一間にごろりと横たわったりする。
そんなときにふと、幸せを感じた。
ああ、これがそうかと思う。
けれど、本当にそうだろうか?
私には欲があった。
もっと上の幸せがあるのではないだろうかという好奇心。
ツギの当たった心と体でどこまで行けるかわかりはしないが、もう少しだけ頑張ってみようと、仕事を変えた。
陥れられぬように細心の注意を払い、虐げぬように心を配った。
気付くと、隣に大切な人がいた。
君のことだ。
伴侶を得るなど望外の幸福だ。
二人ですむからと、2LDKの新居を検討すると、君が言った。
「3LDKがいいかもね」
その意味を私は考え、ああこれが幸福なのだろうかと涙ぐんだ。
引っ越しをした。
未来を見据えた3LDKだ。
自宅に自分以外の存在がいることが少し落ち着かなかったが、その存在が消えてしまうことを想像すると恐ろしかった。
私は満ち足りていた。これ以上の幸福はないだろうと思う。
だから、どうか悲しまないでほしい。
私は幸せの中で死んだのだから。
私は筆をおいた。
手書きの手紙を書いた経験など、これが人生で初めてだ。
満ち足りた気分だった。手紙を伴侶のベッドサイドにおいて、私はベランダに出る。
夜風が頬に気持ちいい。
ひやりとした風に髪を遊ばせながら、私は眼下に見える道路へと飛び降りた。
――なぜ、あんな馬鹿なことをしたんだろう。
どれほど悔いても、もはや自分にはどうにもできない。
私が愛した大切な人は、今日もすすり泣いている。
私はその呪詛を耳元に聞きながら、この先永遠に眺め続ける天井を凝視していた。
幸福な死が、一刻も早くおとずれることを願いながら。