病院の窓
「この病院、出るらしいですよ」
私は病院にちょっとしたトラウマがある。
それゆえ、謎の体調不良をおぼえてもかたくなに病院に行くことを拒絶し続けてきたのだが、このたび後輩との食事中に腹痛で倒れるという大失態をやらかし、あれよあれよという間に救急車を呼ばれて最寄りの救急病院にぶちこまれてしまった。
一晩の検査入院。
明朝退院。
げんなりとした私に向かって、付き添ってくれた後輩がおそろしげな顔をしていった。
私は怖い話が好きだが、さすがに突然の入院で弱っている人に対して、あまりに趣味が悪いのではないか。
ぎろりと睨むと、後輩は軽く肩をすくめた。
「だって、看護師さんが“気を付けて”っていうもんで」
「はあ?」
看護師が、病院に付き添いにたいして幽霊話を吹き込み、しかも危険があるような口ぶりで「気を付けて」など、一体どういう了見か。
「気を付けるって、何を、どう?」
「窓をノックされるんですって」
「ありがちー」
「そしたら絶対に窓を開けないといけない」
「へえ?」
そこはちょっと変わっている。
絶対に窓を“あけてはいけない”ではなく、“あけなければならない”のか。
「どうして?」
「や、教えてくれませんでした。とにかく、窓をノックされたと思ったらあければいいとだけ」
「最初から窓明けとけばいいんじゃないの?」
「ああ、たしかに」
「寝てたらノックとか気づかないかもだし」
「ですね」
「っていうかそんな病院に入院したくない帰る」
「まあまあまあまあ」
後輩が私をなだめているうちに、看護師が検温にやってきた。
体温と脈を図られながら、私は質問の矛先を看護師に向ける。
「ノックが聞こえたら、窓を開けるんですか?」
聞くと、看護師が顔色を変えた。
「え? あ、この病室……!?」
「ああ、この病室限定なんですね」
「ごめんなさい。他に部屋が開いてなくて……」
ちなみに個室である。
風呂とトイレは共同だが、激安ビジネスホテルといったおもむきだ。
「窓を開けないとどうなるんです?」
「そのう……私も先輩から聞いただけなんですけど……」
夜中、窓を叩く音がする。
音を無視していると、それはだんだん激しくなり、ついに窓ガラスが割れてしまう。
ベッドは窓の近くにあり、割れたガラスで患者が怪我をする。
そういうことが、立て続けに起こった。
私はベッドの位置を確認する。
確かに、不自然に窓から離されているようだ。
「最初から、窓開けておいたらどうなんですか?」
「開いてる窓を叩かれる」
「はあ」
「で、窓はそれ以上開けられないでしょ?」
「ですね」
「割れちゃう」
「閉めてから開けたら?」
看護師は曖昧に笑った。
「ためしてみて、結果を教えてください」
なるほど、めんどくさい患者の対応も手慣れたものだ。
検温を終えて看護師は去り、部屋には私と後輩だけ。
後輩は窓を開け、上下左右を覗き込む。
「うーん。別に何かかわった感じないですけど」
「そりゃ変わったものがあったら、どうにかしてるでしょ。さすがに」
「ですねぇ。じゃあ私帰るんで」
薄情な後輩は、私を置いて去っていった。
その夜だ。
何もおこりませんように、と祈りながら眠った私の耳に、残念ながらノックの音が忍び寄った。
コツコツ、コツコツ。
ドンドン、ドンドン。
それにしたって怪奇現象という存在は、どうして外から窓やら戸やらを叩くのが好きなんだろう。
わざと怖がらせようとしているとしか思えない。
私は腹痛の残滓に苦しみながらもたもたとベッドを出ると、カーテンを開けた。
看護師に指示された通り、窓を開けるためだ。
けれども。
“ソレ”と目があって、私は悲鳴を上げかけた。
四つん這いの何かが、窓にへばりついている。
誰かではなくて、何かだ。
巨大な頭から、蜘蛛のように細長い四肢が映えている。
辛うじて「人間の顔だ」と認識できるが、それにしてはすべてが異様でアンバランスに配置されている。その顔が、まるでガラスの床を覗き込む子供の湯に、“窓に”這いつくばって室内をギョロギョロと見回していた。
窓に接している四肢はすべてが「手」で、四つの手がそれぞれ、交互に窓を叩いている。地団駄をふんでいると言ってもいい。
私は自分が「見える」タイプだと思ったことは一度もない。
ホラー映画も好きだし、多少は心霊現象のようなものに遭遇したこともあるが、これはもうそういうレベルではない。
ただの怪物だ。
窓を開けたら、入ってくる。
入ってこられたら、取り返しがつかなくなる。
そういう確信があった。
私はじりじりと窓から離れ、廊下に出る。
一目散に、ナースステーションに走った。
背後でガラスの割れる音がする。
「あの! すみません、今……!」
私がナースステーションに駆け込むと、ガラスの割れる音を聞いた看護師が、すでに状況を察して立ち上がっていた。
昼間に会ったのとは違う、少しお年をめした感じの人だ。
「窓、開けなかったんですか?」
「いえ……あの……」
あけたらまずいと思ったから、あけなかった。
そう言えない空気がある。
「トイレに行ってる間に……ノックあったみたいで」
「人がいないとノックしないんですよ、“アレ”」
看護師さんの言葉に、私は引きつった。
心臓が押しつぶされそうに痛む。
「看護時さんもアレ……見た事あるんですか」
「夜の巡回の時に、たまたま。普通は見えないみたいですけど。だから今夜、あの病室に入院する患者さんがいるということで、私が急遽夜勤になったんです」
「ご迷惑をおかけしまして……」
「でも、見えてたら開けられませんよねぇ、あれ」
私は頷いた。
「入ってきちゃうと思って」
「入れてあげないとダメなんです。中に人がいるのに、締め出すと怒るから」
「じゃ、窓を開けると?」
「病室を一回りして、満足して出ていくみたいです」
だから、窓を開けろと言ったのか。
けれど、窓を開けて、あれが入ってきて、病室を一回りして出ていくのをただ見送れるような精神力を、私は持ち合わせていない。
「最初から全部説明できればいいんですけど、説明すると怖がられますし、逆に興味本位で窓を開けない人もいて危険なので」
「でしょうねぇ……」
ノックが聞こえたら、窓を開ける。
でないと窓が割れる。
それだけ伝えるのがベストだろう。
普通は何も見えないのだから。
「ノックのタイミングは決まってないから、看護師が決まった時間に窓を開けにいくこともできないし……」
「っていうか、あれは一体」
「いや、分からなくて。お祓いもしたらしいんですけど」
効果はなかったという。
当然、私は病室に戻る気なんて少しもおこらなかったので、看護師さんの優しさに甘えて朝までナースステーションにいさせてもらった。
見回りの時などは廊下に出されてしまって心細かったが、あの病室に戻るよりはずっといい。
そして翌朝、退院
私はふと気になって、過去の事件を調べてみることにした。
友×病院――事件、事故。
「ん、これだ」
1960年8月。
蒸し暑い夜だが、病院は冷房を動かしていなかった。
たえかねた患者は窓枠に腰かけてすずもうとしたところ、手を滑らせて転落。
かろううじて窓枠につかまっていたが、患者は声帯切除の手術をしており、声が出せなかった。
見回りの看護師は「トイレにでも行ったのだろう」と考え、窓を閉めて内側から鍵をかけた。
その夜、窓をコツコツと叩くような音を両隣の患者が聞いているが、ついに窓を開けて外を確認することはなかった。
翌朝、患者が転落死しているのが発見された。
「……これかぁ」
しかし、窓を開けて病室に入ってきたあと、“あれ”は一体何をするつもりなのだろう。病室を軽く見回って外に出て行くと言っていたけれど――。
ぱらぱらと新聞をめくると、件の病室でその後、何件か事故が続いているというような記事を見つけた。注目を集めた事件の残滓の縋るような小さな記事だが、事件後病室では夜中に突然窓が割れ、患者が怪我をするのだと書いてある。
これは看護師さんから聞いた通りの話だ。
新聞に出ているのなら、ウェブでも何か情報があるかと検索をかけてみると、それらしいものがヒットした。
――兄が入院していて「夜中にノックがあったから窓を開けた」と言っていた。
ちなみに兄は今も別の病院で入院中。
――同じ病院かも。霊感があるって子が入院してて、あけたらやばいと思って
黙ってたら窓が割れたって。
――その病室に入院してました。退院した日に事故ったんだけど呪われてる?
ネットの掲示板の書き込みなんてあてにならないけれど、私がこうして調べているのだから、私と同じような経験をして、ネットにその記録を残す気になった人もいるかもしれない。
だからこういった書き込みのうちいくつかは、きっと事実なんだろう。
ひょっとしたら、と思うこともある。
ノックが聞こえても窓を開けなければ、窓が割れて患者は怪我をし、病院はクレームを受ける。
だけどもし窓を開けると、“アレ”は病室に入り込み、入院患者に人知れず害をなす。
あれはそういうものだったのではないか。
だが病院として問題になるのは前者であって、後者は知ったことではない。
まあ、そんな病室、物置にでもなんでもしてしまえと思うけど……。
さほど大きくない病院だ。
入院用の病室をひとつ潰すだけで、経営が厳しくなるのかもしれない。
これ以上の詮索は無駄だし、私はますます病院が嫌いになって図書館をあとにした。
自宅に戻って、夜。
私の部屋は集合住宅の八階にある。
コツ、コツ。
カーテンの向こう側で、ガラス窓をノックする音がした。




