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プレリュード

作者: 夏目八尋

 私は、人と話すことがあまり得意ではない。


「また明日ねー」

「ばいばーい」


「これから部活?」

「んにゃ、トイレ掃除が先だわ」


「ゲーセン寄って帰ろうぜ!」

「おっしゃー!」

「俺も混っぜろー!」


 放課後、楽しそうに声をかけ合うクラスメイトから遠く、一人で静かに帰り支度を整える。


「雪乃ちゃん、またね」

「!」


 不意に声をかけられ、私の胸は驚くほどドキリと音を立てた。

 見上げたら、そこにいたのは席の近いクラスメイトの女の子だった。


「じゃねー!」

「あ……」

「葵ちゃん待ったー?」

「ういー」


 わざわざ声をかけてくれた優しいクラスメイトはそのまま私のそばを素通りし、廊下で待っていたらしいお友達に合流する。

 そうして歩き出した彼女が見えなくなっても、私の胸はしばらくの間ドキドキと鳴り続けていた。


「……はぁ」


 人と触れ合うのが少しだけ、怖い。

 不用意な言葉で誰かを傷つけたりしてしまわないか、すでにしてしまったのではないか。一度気にしだすと眠れなくなる。


(……今日も行こう)


 人と交流するのがあまり得意ではない私は、今日も一人であの場所へと向かう。


「おー、大槻か。いつものな」


 目的の部屋の鍵を先生から受け取り、階段を上って向かうのは、


「……ん」


 第二音楽室。

 私の、秘密基地だ。


   ※      ※      ※


 厚いカーテンで窓を覆う音楽室は今日も薄暗くて、静寂に包まれている。


 パチンッ


 私は部屋の中に入ってから数歩。壁のスイッチを押して部屋に明かりをともす。


「……よし」


 私の通う学校には音楽室が二つある。

 授業では両方使われているのだけれど、放課後、部活動に利用されるのは第一音楽室だけ。

 昔は合唱部と吹奏楽部がそれぞれに教室を使っていたらしいけど、生徒数の減少から吹奏楽部がなくなり、第二音楽室は使われなくなった。

 おかげで授業が終わったその後は、隣の準備室にすら人がいない無人の空間が出来上がる。

 静寂に支配された場所。それがここ、第二音楽室だ。


(……素敵!)


 それは私にとって最高の状況だった。

 第二音楽室の隣はコンピューター室、そのまた隣は視聴覚室。どちらも部活動に使われてないから人はいない。

 鍵がないと入れないからガラの悪い生徒も近づかない安全地帯。

 それに何より私がここに足しげく通い続ける最大の理由が……


「………」


 部屋の明かりをつけた私が一直線に向かった先、一台の黒くて大きなグランドピアノ。

 これが私の何よりの目的だった。


(今日もよろしくお願いします)


 心の中で礼をして、私は事前に拭いた手で屋根を持ち上げ突上棒を指定の場所に嵌め込む。

 椅子に腰かけ、次いで鍵盤蓋を持ち上げた。

 最後に赤いカバーを外したら、目の前に規則正しく並んだ白と黒が姿を現わす。


(今日も素敵です、グランドピアノ先生)


 丁寧に管理されて今日も艶やかな鍵盤に、私はうっとりと見惚れた。


 そう。

 私はピアノが好きだ。

 将来何になりたいかまだ決めていないけれど、生涯に渡って鍵盤に触れられる人生を歩みたいと思うくらいには大好きだ。


(まずは一曲……挑戦)


 気持ちを落ち着かせ楽譜を譜面台に置いてから、ゆっくりと白い鍵盤をなぞる。


「……すぅ」


 力を抜いたまま、指先を躍らせた。


 左から右へ。低い音から高い音へ。

 高い高いドの音を出したら今度は右から左、高い音から低い音へ。

 両手の指を使って鍵盤を叩き、音色を作り上げる。

 波を打つように低い音と高い音を、その始まりと終わりを少しずつ変えながら繰り返し奏でていく。

 繰り返す内に白だけでなく黒にも触れる。

 フラットな音を混ぜ、さらに波は打ちつけ引いてを繰り返していく。


(今日は調子がいい)


 指の滑りの滑らかさに、私の気持ちが高まる。

 家じゃ近所迷惑だったりお金の問題でグランドピアノなんてとても買ってもらえない。

 この放課後の僅かな時間だけが、私に与えられた幸せな時間。


(いける……!)


 楽曲が一番の盛り上がり、クライマックスに突入する。

 左右の手で、違う旋律を作り出す。

 右手で三つ、四つの音を重ねて高い和音を響かせ、左手はまた波の音を紡ぎ続ける。

 時折右手もまた波を生み出すために使いながら、音を重ねてより深い音楽を奏でていく。


「………」


 盛り上がりに合わせて複雑になっていく波の音、タイミングが合わなければ調和を乱してしまう和音。

 そのすべてが綺麗に重なった時に生み出される、美しさ。

 体全体でリズムを取って、最後の音へと向かっていく。

 両手の指で最後の音、七つの音が重なった。


「………」


 音の余韻を作って指を離す。


「……はぁっ」


 呑み込んでいた息を思いきり吐き出した。

 時間にして二分と少しの短い曲。それでも私にとっては今日受けた授業の何倍も濃密な時間。

 一つの音も外さなかった最高の結果に、


「……やった」


 私は嬉しさのあまり小さくガッツポーズを決めた。

 特に習い事をしているわけでもない私が、日々の鍛錬で遂に身につけた新しいレパートリーの誕生に身を震わせる。


(この感動を忘れない内に、どんどんチャレンジしよう……!)


 私に与えられた時間は短い。

 下校時刻になるまで一曲でも多く演奏したい。


(次はこれにしようかな? んー、さっきの曲をもう一回やって本当にものにしたい気も……)


 時間がないと分かっていても、ついつい焦って決められない。

 持ち込んだ楽譜をカバンから取り出しあれこれと見比べながら、私は次に演奏する曲を何にするか頭を悩ませる。


 その時だった。


(……!)


 私の耳に聞き慣れた、タンッタンッと何かがはじけるような音が聞こえてくる。


(階段を駆け上がる上履きの音!)


 すぐにその音の正体に気づいて、私の心は大きくざわついた。

 誰かがこの校舎の階段を上っている。

 放課後のこの校舎は、一階の家庭科室で週に一回料理クラブが活動をする以外生徒が近づく理由はない。


(ならどうして?)


 疑問に答えを見つける前に、足音はどんどん近づいてくる。


「あ!」


 もしかしたらと思った私はとっさに楽譜とカバンを掴んで、床まで伸びたカーテンの裏側に身を隠した。

 間違って欲しいと思ったけれど、私の予想は当たってしまう。


 ガララッ


「あれ?」


 音楽室の扉が開かれる音と、直後に聞こえた男性の声。


「もう帰ったのか……」


 音を吸い込む布越しで、くぐもって聞こえるその声は、どこか残念そうな響きを持っていた。

 でもその時の私はそんな声音を気にしてる余裕なんてなくて、


(誰か来た誰か来た誰か来たー……!)


 こんがらがってしまった頭を抱えて、身を縮めて嵐が去るのを震えて待つことしか出来ないでいた。

 私の秘密基地は、突然の来訪者にあっさりと破壊されてしまった。


「ん?」

(―――!)


 何かに気づいたらしい声に、私の体に緊張が走る。


「楽譜がある」

(えっ……!)


 続いて聞こえた言葉に、私はあわてて自分の持ち物を確かめる。


(ない! さっき弾いた曲の楽譜!)


 目の前が真っ暗になる。

 ここに隠れていることもすぐにバレてしまう。


(何か言われちゃう……!)


 たとえ何を言われたとしても、私には何も返せない。

 そうして黙り込んでしまった私を見て、相手も困ってしまう。困らせてしまう。

 上手なやり取りなんて出来るはずがない。私には無理だ。

 今はただ男性が一刻も早くここからいなくなってくれるよう、神様にお祈りするしかない。


「………」


 さっきの呟きから、声がしない。

 まだいるんだろうか? それとももう帰ってくれたんだろうか?

 さっきとは違った意味で一秒一秒を長く感じながら、私は息を潜めて隠れ続ける。


 と、そんな私に聞こえてきたのは。

 あまりにも意外な音だった。


「……え?」


 波のように軽やかな音の流れが響いてくる。

 低い音から高い音へ。

 高い高いドに届いたら、今度は高い音から低い音へ。


(これって……!)


 私の耳に聞こえてきた音。

 それはまぎれもなく、私がさっきまで演奏していた曲だった。


   ※      ※      ※


 私の秘密基地で、私以外の誰かがピアノを弾いている。

 奏でられる楽曲は、私が覚えた一番新しい曲。


「………」


 でも、私の耳に聞こえてくるその音は、


(……すごい)


 私が今まで作り上げたどんな音よりも美しかった。


 音の始まりから終わりまで、ただ同じ拍で打つんじゃなく淀みなく流れを作り上げていく。

 音の頂点に達した時はわずかに跳ねるように音を生み、今度は登った山を風のように駆け下りていく。

 そう。それはただの演奏なんかじゃなくて、


(音が、生きてる……!)


 ただ綺麗な音を生み出すだけじゃない。演奏を通じて何かのイメージを作り上げていく感じ。

 私の中でこの楽曲は波の流れを感じるだけのものだったのが、新しいイメージで上書きされていく。


 それは、青白く雪をかぶった山並み。

 どこからか吹いてきた風が山肌を撫でて吹き抜けていく。

 風の流れと同じ方向へ、山から川が流れている。

 初めは力強く、次第に優しく、広やかに。

 山を下りた川は、そのまま草原の中を流れていく。

 風が流れに重なって、今度は背の高い草を撫でて新しい音を生み出した。

 風が、川が、景色を広げていく。

 そこには。


(広い……広い世界がある……!)


 青い空と、緑の草原。そんな景色がどこまでも広がっていた。

 それは何かが始まりそうな予感に満ちた、心躍る風景だった。


「………」


 演奏が終わる。

 もともと短い楽曲だから、実際の時間はほとんど過ぎてないと思う。

 でも、私はその短い時間に大空を飛んで世界を見ていた。


(胸の高鳴りが、止まらない……!)


 信じられないくらい私の心は震えている。

 高まったまま戻ってこない心に引っ張られて、私の体が勝手に動いた。

 具体的には、腰を抜かした。


「あ」


 ペタンッ


 尻餅をついて、手が冷たいタイルを叩く。


「ん?」

(しまった―――!!)


 気づいた時にはもう遅い。

 私の立てた音に、相手も気がついた。


「誰かいるのか?」


 問いかけながらゆっくりとこちらに近づいてくる。


(逃げ、逃げなきゃ……!)


 一刻も早くこの場を立ち去らないといけない。

 そう思っても抜けた腰は落ち着かなくて、上手に立ち上がることすらままならない。


「あ、ああ……」


 どうすることも出来ない。

 結局私は何の行動も起こせないまま、その瞬間はやって来た。

 カーテンがめくられる。


「あ」

「……!!」


 その人と目が合った。

 透き通った水みたいな瞳の色をした男子学生だった。

 学ランの襟に付いている学年章は、彼が私と同じ二年生だと教えてくれた。


「なんで隠れてたの?」

「あ……う………」


 彼からの当然の質問に、私は口ごもる。


「………」

「………」


 答えを待つ彼と、答えられない私。

 沈黙が下りて、時間だけが過ぎていく。

 高まっていた私の気持ちは急降下。今はもう見る影もない。


「えっと……とりあえず、大丈夫?」


 そんな私を見下ろしていた男子生徒が、見るに見かねて心配そうに声をかけてくる。

 立ち上がれないでいることを察してくれたらしく、そっと手を差し伸べてくれた。


「う、うう……」


 大人しくその手を取って、私は壁を支えにしながら立ち上がる。

 窓の縁に手を置いて一人で立ったところで、男子生徒の手を離した。


「……その、ごめん」


 男子生徒が謝ってきて、私はああ、またこうなってしまったとさらに気持ちが沈んでしまう。

 私がへたれてしまっただけなのに、相手を申し訳ない気分にさせてしまった。


(黙っていても迷惑をかけるなんて……)


 つくづく、私は人付き合いに向いていないと思い知る。

 涙が出そうだった。

 気持ちを落ち着けて、私は床に置いたままのカバンを拾い上げる。

 こうなってしまったらもう、早く家に帰りたい。ここから逃げ出したい。それだけだった。


「大丈夫、です、はい……」


 男子生徒に俯いたままそれだけ言うのが精一杯。

 最初に合わさった視線ももう合わせることなんて無理。


(うう、本当に申し訳ない……!)


 いたたまれなさに急き立てられて、私は今にも走り出しそうになった。


「あ、待って!」

「え?」


 でも、そうすることは出来なかった。


 男子生徒が、駆け出そうとする私の肩を掴んでいた。

 驚いて振り返って、私はもう一度、彼の青味がかった瞳を見る。

 見る気はなくても、その瞳に自然と目が向いた。


「楽譜、楽譜忘れてる」


 男子生徒が肩を掴む手と反対の左手で、グランドピアノの譜面台を指差す。


「あっ……」


 教えられて思い出す。確かに譜面台の上には私の楽譜が置いてあった。

 自分の物忘れの酷さに恥ずかしくなって、私の顔はボッと火がついたように赤くなる。


「ご、め……りが、と……!」


 何とか謝罪とお礼の言葉を口にして、私は楽譜を取りに向かう。

 そして楽譜に手をつけたその瞬間、


「やっぱり。それ、君のだったんだな」


 男子生徒の言葉が聞こえた。


「さっき聞こえてた演奏も、君がピアノを弾いてたんだ」

「あ……」


 楽譜に手を触れたまま、私は固まった。

 そもそも、彼がここに来た理由を私は何と予想していたか。


「会えて良かった。顔を見てみたいって思ってたんだ」


 男子生徒は私を真っ直ぐに見つめたまま、嬉しそうに微笑んでいる。


「良かったら、もうちょっとだけ話をしてもいいかな?」


 人付き合いの下手な私とは真逆の、人好きのする笑顔と言葉遣い。

 私は向けられたその笑顔に、ちゃんとした返事をする勇気なんてなくて。

 でもどうしてだか、今すぐにここから逃げ出そうという気も、いつの間にかに薄れていた。


   ※      ※      ※


「放課後によくここで演奏してたのも、君だよね?」

「……はい」


 それから私は第二音楽室にとどまって、男子生徒と話をすることになった。

 話といっても相手が知りたいことに私がどうにかこうにか答えるっていうだけの、質疑応答。


「放課後は大体すぐに学校を出るんだけど、たまにここからピアノの音が聞こえてきてて気になってたんだ」

「………」


 防音のカーテンを閉め切っての演奏だからそうそう外に音を漏らしたりしてないつもりだったけど、甘かったらしい。


(もうダメだ。おしまいだ……)


 彼の言葉を聞きながら、私は自分だけの秘密基地が暴かれてしまった事実に深く絶望していた。


「どこかで習ってるの?」

「いえ……」

「いつからやってるの?」

「……えと、一年になって、から」

「そっかー」


 一体何が楽しいのか、男子生徒は矢継ぎ早に私に質問をしては、うんうんと頷いて笑っている。


(私、何やってるんだろう……?)


 どうして自分はここから逃げ出していないのか。そんな疑問が浮かぶ。


(でも……)


 質問に答えるだけっていうのは、口下手な私にとって思った以上に楽で、気分も悪くないものだった。

 それに何より、質問に答えるたびに色よく反応を返してくれる目の前の男の子が、見ていて気持ちよかった。


(きっとお友達とかたくさんいるんだろうなぁ)


 なんてことを考えながら、私とは住む世界の違う人と交流する未知の体験を、気づけば私もそれなりに楽しみ始めていた。


(さっきの演奏、とっても上手だったなぁ)


 気持ちに余裕が出てきたことで、私の思考は自然と心踊ったピアノの音色を思い出す。

 私のそれとは比べ物にならない、想像力を掻き立てる演奏力。


「俺、これでもたまに学校行事でピアノ伴奏してるんだけどさ」

「え?」


 不意に聞こえた言葉に驚いた私を見て、男子生徒が苦笑する。


「やっぱ、そんなに目立たないよな」

「あ、えと……」


 男子生徒の笑顔が少しだけ曇って、私はとっさに何かを言わなきゃいけない気になった。


「わ、私……! その、ピアノ。ピアノばっかり見てたから……ごめん」

「え……」

「あ……」


 焦りと共に出てきた言葉は、どう考えても普通じゃない変な言葉だった。


(ど、どこにピアノばっかり見てる人がいるっていうのよー!)


 ここにいる。

 私は朝会で校歌斉唱する時、歌っている間中ずっとグランドピアノを見つめていた。


「あの、その……」


 また相手を困らせてしまう。そう思って何とか取り繕おうと私は言葉を探す。

 けれどそれより先に、思わぬ返事がきた。


「あはは、本当にピアノ好きなんだ?」


 男子生徒は笑っていた。

 私を馬鹿にするでもなく、純粋に面白くて、楽しくて笑っているようだった。


(わぁ……)


 すごい人だなぁって、思わず感心してしまった。

 きっとこの人は人生を楽しみまくっているに違いない。だからあれだけすごい演奏が出来るんだ。そんなことを思う。


「伴奏が誰かなんて気にしないってのは分かるけど、ピアノばっかり見てて奏者無視する人なんて滅多にいないって」


 よほど笑いのツボを押されたのか、男子生徒がお腹を抱えて笑う。そして、


「うん。すごいね、君」


 肩を震わせながら、彼が私にそう言った。


「でも、分かる」


 続けてそう口にして、頷いた。


「好きなモノに夢中になるって気持ちは、よく分かる」


 そう言って男子生徒は、ピアノの鍵盤を音を立てずに優しく撫でた。


(あ、違う)


 私は今さっき考えたことをすぐに否定する。


(好きだから、上手なんだ)


 男子生徒はきっと、私なんかよりずっとずっと演奏が好きなんだ。そしてきっと、好きだからたくさん触れてきたんだ。

 気づけば見ることが出来るようなっていた彼の横顔が、ピアノの鍵盤を見る目がとても温かくて。


「そうそう、さっきの楽譜」


 思い出したように彼が話題にするのは、私を想像の世界へ導いたあの曲について。


「とってもいい曲だった」


 そう言って、楽譜も見ずに曲の頭の数フレーズを演奏してみせる。

 男子生徒の指が踊る。

 波が押し寄せ、ゆっくりと引いていく。


「上手……」


 思わず私の口から零れた言葉に、


「ありがとう」


 男子生徒がまた明るい笑顔を見せてくれた。


「楽譜、もう一回置いてくれる?」


 お願いされ、私は手に持っていた楽譜を譜面台へと置き直す。


「………」


 今度は間近で、防音のカーテンで仕切られることもないまま、私は男子生徒の演奏を聴いた。

 淀みない音の流れが、私に語りかけるように響いてくる。

 音は、言葉じゃないけれど気持ちを表現出来る。

 数多の文字が作り出すものとは違う、旋律が生み出す物語がそこにある。


 私は目を閉じ、音の世界を視る。

 さっきよりも明確に、どこまでも澄み渡った世界が心いっぱいに広がっていく。

 何かの始まりを予感させる音楽は、私の胸の内を期待と希望で満たしていく。

 高まった心は、ふと。


(今こうしてるのも、何かが始まる予兆だったりして)


 今この時は、自分の中にある壮大な物語の始まりを告げるイベントなのだと、そう思えたら。

 私だけの物だった秘密基地が失われたことも、気にならなくなった。

 演奏に和音が重なり始める。

 その音はまるで、私の中の新しい始まりを告げるファンファーレのようだった。


   ※      ※      ※


「……ふぅ」


 演奏が終わり、男子生徒がため息をつく。

 とても集中していたんだろう、額にはうっすらと汗が浮かんでいた。


「すごい……!」


 私は彼に向かって拍手を送る。

 高まる気持ちのまま打ち鳴らした手は、叩くたびパチパチと強い音を響かせた。


「ありがとう」


 私の拍手に対して、男子生徒は席を立ち恭しく一礼する。

 その立ち居振る舞いがあまりにも堂々としていて、私は自分でも信じられないことに、男子生徒に私から問いかけていた。


「ピアノ、習ってるの?」

「習ってるよ。だから放課後はだいたいすぐに帰って、ピアノ教室でレッスンしてる」

「ふぅーん……」


 と、そこまで言ってから自分のしたことに気づき、ハッとなる。


「あ、ごめん。いきなり、その……」

「いいよ。俺の方こそいきなり押しかけて、居座って、あれこれ聞いちゃったし」


 しどろもどろになる私に、男子生徒が大丈夫、と優しく声をかけてくれる。


「最初は空耳だと思ってたけど、何回も聞いて、気になって……今日こうして正体が分かってよかった」


 好奇心に突き動かされた、と話す彼は。

 まるで、さっき視た無限に広がる世界を駆けていく、旅人のようだと思った。


 プツッ


 教室の角にあるスピーカーが音を出し、三人目の声が響き始める。


『下校の時刻になりました。生徒の皆さんは、気をつけて帰りましょう。下校の時刻になりました……』


 それは、この特別な時間の終わりを告げる言葉だった。


「もう帰る時間だ」

「うん……」


 自分でも驚くくらい気落ちしていた。

 もっと彼と話がしたいと思っていた。もっと彼の演奏を聴きたいと思っていた。

 今にして思えば、分かる。

 私が校歌を歌ったりする時にピアノを見ていたのは……ピアノから流れる音楽が心地いいものだったからだ。

 彼の演奏に聴き惚れていたのだ。

 そんなすごい人との出会いの時間が終わってしまう。それがとてもとても、名残惜しかった。


「今日はありがとう、話せてよかった」


 荷物をまとめ、改めて向き合う形で男子生徒が声をかけてくれる。


「私、も……」


 私はまた、元の口下手な私に戻って、人付き合いが苦手な私に戻って、黙り込む。

 それで終わり。私の中にあった期待なんて、結局は幻想でしかない。

 たまたま、運が良かった。それだけだ。


「ありが、とう」


 何とかお礼の言葉を返して、私は再び俯く。

 男子生徒はこの後、クラスメイトの女の子のように私のそばから離れて、お別れ。

 それでも、本当に楽しい時間だった。それで十分だと思った。


 だから、その次に起こったことは本当に予想外だった。


「もしよかったら……この楽譜貸してくれない?」

「え?」

「練習してもっと上手く弾けるようになりたいって思って。本当にこれ、いい曲だから」


 彼の手には、今日何度も弾いたあの楽曲の楽譜が掴まれている。

 鼓動が、一際強く鳴った気がした。


「ダメならいいんだ」


 そう言って諦めそうになった彼に、私は首を左右に振る。


「ううん、いいよ」

「いいの? ありがとう」


 私が許可したとたん、彼はまた笑顔を見せてくれた。


(あっ―――!)


 その瞬間、私のすべてが激しく揺さぶられる。

 心の中で、新しい波が立ち始めたのを感じた。


「何組? 俺は3組」

「……1組」


 クラスを言い合ったところで、ハッと彼が何かに気づいてあわてだす。


「ご、ごめん。そもそも自己紹介してなかった!」

「あ」


 私もそうだと思い至って、二人してしばらくあわてふためく。


「こほん。えっと、俺は沢渡広夢って言います」

「……大槻、雪乃……です」

「そっか。大槻、さん」

「は、はい」


 確かめるように苗字を呼ばれて、私は頷く。

 遠いところにいると思っていた人物が、私の名前を呼べるすぐ近くに立っていた。


「どうぞ、その楽譜、貸します……沢渡君」


 私も、彼の苗字を呼んでみる。


「……うん。ありがたくお借りします」


 彼から返事がきた。

 クラスの皆は誰だって出来る、当たり前の、普通の会話。


「それじゃあ、しっかりマスターしてからまた演奏するから! その時は是非聴いて」


 借り受けた楽譜を振って彼、沢渡君が第二音楽室から出て行く。


「ありがとう、大槻さん!」


 視界から消える直前、誰でもなく私の名前を呼んで、彼は駆け去っていった。


「………」


 心臓の鼓動が止まらない。

 これまでずっと、人と触れ合うのは怖いと思っていた。でも、


(怖く、ない……!)


 今この胸を響かせているのは、もっと別の、熱い何かだ。


「プレリュード……」


 私は彼に貸した楽譜に記された、楽曲の名前を口にする。


 前奏曲プレリュード


 その曲を初めて正しく弾ききった日に、私の物語もまた大きな始まりを迎えていた。


                                 【了】

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― 新着の感想 ―
[良い点] 内気な女の子が音楽を通して男子生徒に惹かれていく。なんだか読みながら甘酸っぱい気分になりました。どきどきっていいですね!!
[良い点] 静かで穏やかな空気感がとてもよく伝わってきました。 文章も読みやすく音楽の知識がない私でもスラスラと読めました。 面白かったです!
[良い点] 若い年代に生きる人たちの初々しい息吹、心の抑揚がよく伝わってきました。楽譜とピアノを通じて繋がる心。清新な文章にも好感が持てます。 爽やかな作品をありがとうございました。
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