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「……あ、おは」
「よぉ! おっはよー!」
「おぉ、おはよ。つか遅くね?」
「いや普通だろー?」
勇気を振り絞って出した挨拶の言葉は敢え無く途中で遮られ失敗に終わった。もう既にこの数日が経過した段階でグループが出来てしまっていて今更割り込む余地がないのも重々承知しているのだが、こんな状態が一年も続くとなると気が滅入ってしまい、俺は焦りを募らせ今こうやって闇雲に声を掛けようとしている。だがそもそも人付き合いが苦手なことも相俟って上手く立ち回れない。それに比べて兄は正反対で……
「……さーお前らホームルーム始めるぞー」
「あれ、たっちゃんは?」
「たっちゃん? 誰だそれは」
「大崎センセーのことだよ! 【達磨】先生だからたっちゃん!」
「最近考えたんだよねー!」
女子達が何やら楽しげに顔を見合わせ頷き合っている。いつの間にそんな交流を深めていたのだろうか。こういうところが本当に恙無いと思う。
「お前ら仮にも先生をアダ名で呼ぶなんてだな……」
「でもたっちゃんは『良いよ』って言ってくれましたもーん」
「そうだそうだー」
女子全員が相手じゃ流石の渡瀬先生もお手上げのようで、ほとほと困った顔をして、見た目にも両手を挙げている。
「分かった分かった! 分かったからお前ら静かにしろ!」
その言葉で漸く教室に静寂が戻る。軽く息を吐くと渡瀬先生は忘れかけていた当初の問いの答えを口にした。
「大崎先生は少し遅れてくるそうだ。一限目の英語の授業には間に合うらしいだから安心しろ」
その先生の一言で再びざわめきが生まれる。
「そうなんだ。どうしたんだろーね?」
「心配だけど一限目間に合うならそんなに大したことじゃないのかな?」
「たっちゃん来たら訊いてみよ!」
「お前らなぁ〜……」
そんな身の無い話を繰り広げている内にホームルームの終わりを告げるチャイムが鳴る。渡瀬先生は「ホームルーム終わっちまったじゃねーかよ!」とぼやきながら肩を落とした後教室を去った。
それにしても兄のあの人気ぶりはどうなんだ……と疑問が過る。だって高校生活始まってまだ日も浅い。それなのにどうなればあんな風に女子の関心を惹きつけられるのだろうか。不思議で仕方がない。所詮は顔なのか。
……あれ、そういえば。
「なぁなぁ、何で今日羽衣ちゃん来てねーんだよ」
「そんなの俺が知るわけねーじゃん」
そんな会話が俺の後ろで交わされている。『俺も今ちょうどそう思っていたところだ』と会話に加わりたいがきっと相手にして貰えないだろうことは分かり切っているから何も言わずただ聞き耳だけを立てていた。
「……あいつに聞いてみるか?」
「はぁ? 訊くわけねーだろ」
多分俺のことを指してるんだろうな、なんて知りたくもないのに頭がそう答えをはじき出す。じわじわと胸の奥に黒い何かが拡がっていくような感覚を覚え、ぎゅっと右手で胸の辺りを握り締める。
「……なぁなぁ、もしかして大崎先生の方と出来てたりして」
「……有り得るかも。センセーも遅れるっつってたしな」
まさかそこで兄のことを持ち出してくるとは予想外だった。咄嗟に後ろを振り返る。瞬間驚愕したような顔をした二人と目が合ったがお互い硬直したまま動けない。
その時、教室のドアが開いた。
「……っ、セーフ!」
後ろのドアが開き、中をキョロキョロと見回す人物は今まさに噂の種になっていた一人ーー大槻羽衣だった。
と、ほぼ同時に前のドアも開かれる。
「ごめん皆! 遅刻してしまって……って、大槻さん?」
噂のもう一人ーー【大崎先生】が僅かに息を切らして教室に入ってきたのだがそれが大槻には運悪く二人の視線が重なる。
「……セーフ、ですよね?」
「……アウトです」
「そんなぁ……」
二人の会話があまりにテンポ良く弾むのでどこからともなくクスクスと笑い声が浸透していく。それが何となく気に入らなくて俺だけは笑わなかった。
「じゃあ罰として大槻さんには英語の本文音読して貰おうかな」
はーい、と間延びした声で答え席に着いた彼女は俺と目が合うなり口パクで『おはよう』と告げてきた。だけど解らないフリをして視線を逸らす。
その後大槻がどういう顔をしていたのかは知る由もない。ただ彼女の英語を音読する透き通った声が、俺を酷く責めているように聴こえた気がした。