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「え、何……何ですか急に」
突然態度を豹変させた彼に怯えながら訊ねると、それまで落ち着かず動いていた黒彩が何の揺らぎも見せず一直線に俺を捉えた。
「先生は妹と結婚なんてしてねーよ」
「…………え…………?」
「それどころかそもそも付き合ってもねーし」
一瞬にして頭が真っ白になった。
彼は何を言っている?
驚愕のあまり膝に乗せた両手が震え出す。
「そんで先生はもう先生ですらねーんだよ」
「……それ……どういう……」
「教師辞めた。しかも自分からな」
もう既にキャパオーバーだ。思わず頭を抱え状況を整理しようと試みるが如何せんショートした脳は考えることを放棄してしまっている。
「え、ちょっと、待って。何、何で……」
「全部嘘だったんだよ。それもこれもお前を守る為だけにでっち上げられた偽物語」
目を見開き黙したまま彼を見つめて真偽を探る。が、嘘を言っている表情ではない。訳が解らずただただ彼の口が語る真実を黙して聞くしかなかったが、やがて彼は説明を放棄し携帯の画面を此方に向けて再生し始めた。
そこに映るのは、薄暗い教室に身を潜めるように寄り添い合う大槻と兄の姿。少しだが音声も聞こえる。周りの音に紛れるそれを聞き逃さないように耳を傾け画面をじっと見つめた……
『……どうしたの先生、急にこんなところに呼び出して』
『……少し話したいことがあってね』
沈黙が落ちる。柔らかい笑みを浮かべる兄の顔。けれどそれが本物ではないような不気味さを醸し出していて映像なのにも関わらず身を固くした。
『実は私も話したいことがあったの』
『じゃあレディーファーストだ。先に言って?』
『…………私、先生と結』
そこで大槻の言葉は必然的に途切れる。兄が紡ぎかけたその唇を奪ったからだ。
『……ねぇ羽衣ーーーー…………』
ーーーー…………一緒に地獄へ堕ちようか。
『え……?』
『プロポーズのつもりだよ。……世間的には後ろ指差されるような軌跡だけど、駄目かな』
『……でも高校は……』
『大丈夫だよ。羽衣も僕も辞めて、別の場所に引っ越そう。そして、落ち着いたら結婚しよう』
『……いいの……?』
『いいよ。……僕は家族を捨てる。だから羽衣も、捨てられるよね?』
『……解った……。……嬉しい……っ』
そう言って彼の両肩に腕を回し抱きつく彼女。それを優しく抱き留める兄。一見幸せの絶頂に思えるその光景だったが、そうではない。彼女からは死角になっているが、兄の表情は……唇の端だけを吊り上げ醜悪な微笑を象っていた。
「……何だよこれ……」
「これが校長宛に送ったDVDの中身。因みにDVDの方には音声は入ってないし最後の部分はカットしたけど」
「……送った……? カット、した……?」
言葉のあやだろうかと一瞬過った。けれど違う。このタイミングでそんな言い間違いをするはずが無い。ならば、可能性はたった一つ。
「翼さんが……送ったんですか……?」
「あぁそうだよ」
何の衒いもない返答に沸き立つ澱んだ感情。仮にも一度は交流のあった兄と、自分の実の妹を、こんな姑息な方法で追い詰めたと言うのか。
「何でこんなっ」
「勘違いすんなよ。編集して送ったのは俺だけど、予めカメラを設置してたのもこの計画を企てたのも紛れもなく先生だからな」
「…………は…………」
またしても思考が止まる。何故、どうしてそんな、自分で自分の首を絞めるようなことを……?
「いい加減解れよ。それもこれもお前の為だろ」
「何でこれが俺の為になるんですかっ?!」
「妹が辞めればお前がまた一からやり直せると思ったんだろ。それにもうお前が虐められることもない」
「そんなの解らないじゃないですかっ」
「お前を虐めた奴らは最終全員あの学校から排除されてんだよ!!」
張り上げた大声の所為で周りの視線が此方へ注視され二人は揃って恐縮する。気を落ち着かす為か彼は珈琲を一気に飲み干すと先程の女性店員に追加注文をして深呼吸を一つした。それを見計らって今度は俺から口を開く。
「どこからですか」
「何が?」
「どこから繋がってたんですか」
兄と、翼さんは。
そうでなければおいそれと言ってそんなことを計画出来るわけがない。ならばいつからだ。以前この喫茶店で出会った時から、というのが一番妥当だろうが。
「お前の想像通りだよ」
「……なら兄がいつから彼女の本性を見抜いていたのかも知ってるんですね」
それは問い掛けではなく確認。自分でも驚く程低い声が出た。それを耳にした彼は降参だとでも言うように両手を上げて経緯を語り始めた。
「そもそもの発端は先生が階段から落ちた時だ。あの時先生は妹を庇って階段から落ちたって話だった。けど本当は妹が先生を陥れる為に態と足を踏み外して階段から落ちようとしたんだよ。先生に突き落とされたっていう目論見を忍ばせ罪を擦り付ける為にな」
「大槻は何でそんなことを?」
「邪魔だったからだよ。お前を狙っていた妹はお前の兄である先生の存在が鬱陶しく思えたんだ。きっと先生が自分の本来の目的を見抜いていると勘付いて妨害してくると踏んだんだろ」
淡々と告げてくる彼だが、自分の知らないところでそんな風に画策されていたなんて俄に信じ難いものがある。けれどもしそれが本当だとしたら、俺は全く以って暢気だったものだ。だからこそ今に至るまでに大事なことを散々見逃してきたのだと容易に頷けてしまう。
「けどここで誤算が生じた。怪我を負う予定だった妹が逆に庇われて先生に怪我を負わせてしまった。……しかも先生はその計画に気付いていながらも敢えて知らないフリをして妹を庇い怪我を負ったんだ」
「……大槻の嘘に兄は嘘で応えたということですか」
「まぁそうなるな」
よくもまぁそこまで考えが及んだものだと感心さえ覚える。自分には到底思い付かない策略だ。……決して褒められるようなものではないが。
「今度は妹がそれを利用して先生に近付きお前に揺さぶりをかけた。先生は先生でそれを機に妹に近付き標的を自分に変えようとした」
一旦区切りを付けたタイミングで珈琲が運ばれてくる。それを受け取った彼は俺にも何かいるかと訊いてきたが首を横に振って先の言葉を促す。彼が店員に目で合図を送り彼女が深々と頭を下げてその場を去ったところで話を続けた。
「それから妹はあの日……ライブで出会ったあの日に先手を打って、ここぞとばかりに俺達の前でお前が好きだと公言した。それを聞いた先生は俺と二人になった時にこっそり言ってきたよ……」
『キミの妹を落とすことになるけどいい?』ってな。
「は……?」
「俺も最初意味解んなかったよ。俺もお前と同じ反応した。『は?』って。その後すかさず言った。『いいわけねーだろ』って。そしたらアドレス渡されて『僕とキミの利害は一致すると思うよ』って……そんであのライブの日からお前と妹には内緒で先生と話し合ってきたんだ」
「……それって……」
「確かに利害は一致したよ。俺は妹を変えたかったし、先生はお前を守りたかった。だから計画に乗ったんだ」
そこまで言われて込み上げたのは羞恥と怒りだ。それは裏を返せば……
「利用、してたのかよ……」
……俺を。
「お前を利用したのは俺だよ。先生じゃない」
「でも大槻はっ」
「先生に利用された。けどそれはイーブンだろ。妹もお前と先生を利用してたんだから」
手の平の上で上手く転がされていた。そう思うと悔しくて遣る瀬無くなる。三者三様、何かしらの思惑を抱えていて。何も知らず上辺だけのやり取りを真に受けていたのは、俺だけ。
「……何だよそれ。それじゃまるで俺が馬鹿みたいじゃねーかよ……」
いや『みたい』ではなく実際そうなのだ。正直者が馬鹿を見る、という言葉を体現しているようにしか思えない。
「違う。お前が一番まともだっただけだ。普通はそんな駆け引きなんかしない。……純粋に心を開いて、素直な気持ちをぶつけることで情が生まれるのであって、そこに損得を持ち出してしまえば真の関係性は築けない。だからこそ俺はお前に懸けたくなったんだから」
そう告げてくる彼の瞳と言葉は一切の迷いがない。それは俺にとって信用に足るものだった。
「……でもそんな遠回しな方法取らなくても直接言ってくれたら」
「お前は聞いたか? もし先生が直接お前に『利用されてるだけだからあの女は止めろ』って言ったら諦めたのか? 俺の忠告でさえ聞かなかったのに?」
そこまで言われてしまえばぐうの音も出ない。確かに実際その頃先輩には一度忠告された覚えがある。あの時は言うことを聞く聞かないというのは元より自分の気持ちに蓋をしていたから関係ない風を装ったのだ。結局その忠告を無視する形になってしまったが。
「まぁお前を責めたいわけじゃないからこれ以上は言わないけど」
小さく息を吐いたかと思えば彼は徐ろにポケットを探り携帯を取り出した。すると今度は腕時計と携帯を交互に見遣る。
「……タイムリミット。俺が話せるのはここまでだ。後は先生に聞けよ」
そう言葉にすると彼はまたしても携帯を突きつけてきた。
「…………?」
仕方なく画面を見ると今度そこに映っていたのは誰かからのメッセージ。見れば相手の名称欄に【先生】と載っている。
『今まで協力してくれてありがとう。これで最後にするよ。それじゃあお元気で。ーーーー』
「ーーーー追伸、弟をどうか宜しく……って…………」
「……先生は端からお前を俺に託すつもりだったらしい。笑えるよな。そんなに優しくないっつーの」
フッと鼻に掛かるような笑みを浮かべると立ち上がり伝票を手にする彼。
「いいのか、このままで」
想いのボタン、掛け違えたままで。
「……良いわけねーよ……っ」
呻くように言えば彼の口角が上がる。
「今から走って行ったらまだ間に合うと思うぜ」
「…………っ」
その台詞に居ても立ってもいられなくなった俺は勢い良く立ち上がって外へと駆け出そうとした。が、その前に彼の方へと向き直り伝えていなかった意を言葉にする。
「……ありがとう、【ダルマ】さん」
「……その台詞は俺に言うべきじゃない。【ダルマ】は俺じゃないからな」
「え……?」
「凄いな、お前の兄貴。俺も妹のことは大事だけどお前の兄貴は異常だよ。あそこまで捨て身にはなれない」
『良い兄を持ったな』
その言葉を聞いたら何故だか泣きたくなった。嬉しいのか切ないのか自分でもよく解らない感情が綯い交ぜになって片手で瞳を覆う。けれどこんな風に立ち止まっている時間はない。大きく頭を振って無理矢理笑顔を見せた。
「自慢の兄貴です」
それだけは自信を持って言い切れる。その言葉を受けた彼は一瞬虚を衝かれた顔をしたがやがて嬉々とした様相で笑い声を上げた。
「それ本人の前で言ってやれよ。喜ぶぞ」
「言いませんよ、絶対にね」
そう言い残し今度こそ振り返らずに地面を蹴る。
彼の真実を知るために。




