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きっかけは、歳の離れた兄だった。
「圭人、今日から貴方のお兄さんになる達磨君よ。挨拶しなさい」
そう言って母親に背中を押されたが、この頃から既に人見知りだった俺は母の足元にしがみ付いたまま、頑なにその場から動こうとしなかった。
「…………」
「圭人っ」
「大丈夫だよ由紀さん。……こんにちは圭人君。これからよろしくね」
叱ろうとした母親をやんわりと静止し俺と目線を合わせる為にしゃがみ込んだ彼。優しい微笑と共にそっと頭に触れる大きな手。あの時の感覚は今もどことなく記憶に残っている。……ただあの時の柔らかな微笑みが成長した俺に向けられることは無くなったが。
「…………」
「ごめんね達磨君」
「いいですよ。これから徐々に懐いて貰えるように頑張ります」
引っ込み思案な俺が困惑していたのとは対照的に、この時の彼の顔には満面の笑みが浮かんでいた。
初めて出会った時から兄には余裕があった。今となってはそれはもう憎たらしいぐらいに。
兄、と何の違和感も無い程に呼んではいるがそもそも俺と兄は実の兄弟ではない。俺は母さんの連れ子で、兄は今の父さんの連れ子だった。
俺の本当の父親は今の父さんとは似ても似つかぬ人で、働くこともせず酒に溺れ暴力を振るう最低な奴だった。元々そうだったわけではないのだが会社が倒産した頃から変貌していったらしい。と言うのは母さんの話だ。その頃の俺はまだ右も左も分からないような幼児だったから記憶に無い。が、そいつに付けられたという傷は今でも額に残ってしまっている。その後耐え切れなくなった母さんは僕を連れて家を飛び出し、同じ職場で働く今の父さんに助けられた。
兄の方はというと、兄がまだ幼い頃に母親を病気で亡くしたと聞いた。だから兄も実の母親の顔をはっきりと覚えていないらしい。それでも兄は母さんのことを「由紀さん」と呼び続けた。「母さん」と呼んでいるところを一度も聞いた試しがない。兄が一体どういう思いで母さんを名前で呼び続けていたのかは今でも謎のままだ。
※※※
ピコンッ
『あ、もしかして今忙しかったりしますか? 僕邪魔してますか?』
なかなか返事の無い俺に焦れてか、ダルマからそんなメッセージが飛んできた。その音で我に返った俺は僅か数秒思案し、ゆっくりと文字を打ち込んだ。
「『俺が【ライナ】を好きになったのは、兄の影響なんだ』」
ライナ、というのは俺が好きなロックバンドの名前だ。正式名称は【ライト オブ ナイト】。そのバンドを好きになったきっかけというのが、この兄だった。
元々俺はライナというバンド自体知らなかった。というか音楽自体そこまで興味を持っていたわけじゃなかったのだ。だが兄は違った。兄は俺と出会う前から音楽が好きだったようで沢山の楽曲を知っていた。それを俺に色々教えてくれた。今にして思えばもしかしたら兄は音楽をきっかけに俺との距離を縮めようとしていたのかもしれない。何故ならそこに至るまでに、途方もない歳月を費やしていたからだ。
初めこそお互いに気を遣って言葉を交わしたりしていたものの、俺の方が保たなかった。猫かぶりもそこそこに途中で戦線離脱した。元々気配りとか出来るような性格じゃなかったから無理もない。今の父さんとは物心付いた時からちょくちょく家で会っていたから今更気を遣うような間柄でもなくて自然と話せていた。けれど兄との距離感は全く掴めず、気が付けば六年の月日が経とうとしていた。
※※※
「……圭人、今日は学校どうだった?」
「……別に普通」
「そっか……あ、宿題あるんだろ? 勉強教えようか?」
「いい。大丈夫」
愛想のない返事と共に自室へと入る俺。こんな中身の無い会話を続けて早六年。人見知りに拍車を掛けた俺は家でも口数は乏しく、学校でも友達と呼べる者はいなかった。
「……はぁ……」
部屋に入るや否や知らず溢れる溜息。正直この何とも言えない空気が苦痛だった。別に父のことも兄のことも嫌いなわけではない。寧ろこんな俺にも気遣い声を掛けてくれる二人のことは好きなほうだ。けれどその優しさに素直に答えられない。とんだ天邪鬼だろう。自分でもそう思う。けれどどう接していいのか分からずいつも身構えてしまっていた。
「……どうしたらいいんだよ」
呟きが空気に融けた頃、隣の部屋から音楽が流れてきた。
「……この歌……」
最近よく耳にする、とあるバンドの曲だ。名前はなんと言っただろう。記憶を手繰り寄せていく間にコンコンと控えめなノック音が響いた。
「圭人、今ちょっといいか……?」
隣の部屋からは未だに曲が流れている。隣は兄の部屋だ。音楽を止めていないところをみればさして長居するつもりもないのだろうと考察し少しだけ扉を開ける。
「……何?」
「あのさ、圭人は【ライナ】ってバンド知ってる?」
「ライナ……」
「正式には【ライト オブ ナイト】って言うんだけど……」
あぁ、そうだ。思い出した。
「今掛かってる曲の……」
「……! そうなんだよ! 知ってたっ?」
確実にテンションが上がっている兄の姿に目を瞠る。こんな生き生きとして目を輝かせる様相を見たことがなかったからだ。
「知ってるって言っても、今流れてる曲ぐらいしか分からないけど……」
「このバンドすっごくカッコイイんだよ! 曲調も凄く良いし、何と言っても歌詞が胸に刺さるって言うか……とにかくお勧めでっ!!」
「あ……うん」
その気迫に押され思わず一歩下がる。けれど悪い気は全然しなかった。それよりも彼の意外な一面を見られて今までのイメージが良い意味で払拭された気がしていた。
「……それで、ライブのチケットが当たったんだけど……一緒に、行ってみないか?」
「え、俺……と?」
唖然としている俺の前に躊躇いがちに差し出されるチケット。兄の顔を見れば俯きがちに、だがこちらの様子を窺うかの如くチラチラと視線が動く。
時間にして数秒、頭を悩ませた後それを受け取った。
「……行くよ」
「本当にっ?! そっか……っ」
平静を装っているつもりだろうが全然隠せていない。分かりやすいな、と内心呆れる。たかが弟と一緒にライブに行くだけなのに。
「次の土曜日だから! ちゃんと空けといてくれよ!」
「あぁ」
そもそも俺の休日に予定なんて存在しないのに。知ってか知らずかそう言い放つとスキップするような勢いで自室へと戻っていった。
「……何だあれ」
溜息を一つ落とし、何気なく手に取ったライブチケットを見遣る。
【ライト オブ ナイト】。
ここから俺はライナに引き込まれていった。
そして、このライナとの出会いが俺と義兄との関係をも大きく変えていったのだ。