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居た堪れなくなった俺は逃げるように教室を飛び出した。階段を駆け下りながら不意に思う。高校生になってからまともに帰路に着いたのは数える程だな、と。そんな風に思考を巡らせられるのだから意外と俺の頭の中は冷静なのかもしれない。
「……おっ、大崎圭人!」
校門を出る直前、背後から掛かった声に思わず振り向けばそこにいたのは大槻の兄ーー翼さんだった。
「どうした? そんなに慌てて」
あなたの妹のせいですよ、なんて言えるはずもなく。
「……いえ、特に何もないですけど」
上手く躱す為の言い訳が思い当たらず、何とも下手な返しをしてしまった。
「じゃあちょっと付き合えよ」
「え……はい」
無碍に断れるわけもなく渋々ながらも了承すれば行き先も告げずに『俺の後について来れば分かるから』とだけ言ってさっさと歩き出す。暫く無言のままついていけば、カラオケ店の前で足が止まった。
「……ここ入るぞ」
親指で店内を指し示すと否応なしに中へと進んでいってしまう。俺は気付かれないよう嘆息して彼の後を追った。
「……何か歌うか?」
個室に入ると彼は早速デンモクを差し出してきた。が、流石に初対面の、しかも先輩の前で歌声を披露出来る程の度胸も美声も持ち合わせていない。
「いえ、俺は大丈夫なので先輩歌って下さい」
どうぞ思う存分。そう心の中で付け足しデンモクを優しく押し返せば、先輩はそれをテーブルの上に置いた。
「いや別に歌いたくてきたわけじゃねーし」
じゃあ何でカラオケ店に来たんだよ、と突っ込みそうになった手を寸でで止めた俺を褒めて欲しい。チラ、とこちらを一瞥してきた彼は両太腿に両肘を置いて手を組んだ。
「……あんまり羽衣に近付くな」
「……え?」
何を言い出すのかと思えば何とも理解しがたい内容で俺は不意に顔を顰める。だが彼はというと至極真剣な面持ちで俺を凝視してきた。
「これは忠告だ。あいつは止めとけ」
「いや、止めとけって言われても俺は別に……」
『と言うかあなたの妹さんが俺にちょっかい掛けてきてるんですけど』。そう言えば彼はどんな顔をするのだろうか。けれど口に出せる雰囲気ではないし、何となく話が噛み合っていないような気もする。
「俺じゃもう止めらんねぇから」
「……何を言って」
その時、胸ポケットに入れていた携帯が振動し着信を知らせる。確認すると、母親からだった。
「『もしもし圭人?! あなた今何処にいるのっ? すぐ帰って来て!!』」
電話に出るや否や切羽詰まった母の声が耳を劈く。僅かに電話を遠退けた後、話の概要を訊き出そうと言葉を発するが喉が張り付いたように上手く声にならない。
「え、何、何で」
「『達磨が学校の階段から落ちて怪我したって!!』」
「……え?」
現状を把握出来ず呆然とする。目の前に座る先輩が俺の動揺を感じ取ってか眉間に皺を寄せたのをぼんやりと視界に捉える。その間にも母が電話越しに何か喋っているが頭に入ってこない。
「おい、どうした?」
尋常でない僕の状態を察して彼が俺の肩を強く掴んできた。それが功を奏して漸く意識を引き戻す事が出来た。
「だ、大丈夫です……すみません、兄が……学校の階段から、転落したみたいで……」
紡いだ言葉は些か震えていた。彼の表情は依然険しく、彼の中で何かが錯綜しているようにも見て取れた。
「それで、今どうなってる」
「病院にいるみたいです……」
「なら早く病院行ってこい」
「……はい」
お金を出そうとしたらその手を遮られ「いいから早く行け」と背中を押される。その心遣いに小さく頭を下げて再び携帯に耳を押し当てると、母から兄のいる所在を聞き出し病院へと駆け出した。