Очи чёрные 2
「そんな顔しないで。私はあなたに何かしたりしないもの」
そう言って歌姫は、ハクアをなだめる。
「だって私は、何者でもないから」
ガラリ。椅子を引く音が残響する。
どうしたの、座ってよ。その彼女の声が、遅れて聞こえた。その声に促され、とうとう席に腰掛ける。
「…何者でもない、か」
「ええ…さっき、何かを失ったことのない人なんていないって、言ったでしょう」
「君が勝手に変えた歌詞のことだね」
オーナーの男が口を挟むと、黒い少女は一言うるさいと言った。
奇妙な沈黙の破り方に悩みつつ、スバルは会話を進める。
「言っていたね。それが?」
「私だって例外じゃない。そう言いたかっただけ。…ところで」
そして彼女はハクアへと向き直る。
「ねえ、あなた」
そう呼びかけられたハクアは、どこか違うところを見ているようだった。彼女は遅れて返事を返す。
「え、なに?」
黒い少女は、一拍程度の間を空けてから言った。
「なにか、私に言いたいこと、あるでしょ」
「え?」
「先に言っておくと、私はあなたのことを何も知らない。知らないのか、覚えていないのかも定かじゃないけれど。だからね、教えてほしいの。あなたが、私の何を知っているのか、何を知らないのか」
沈黙が続いた後、ハクアは頷いた。その仕草は、覚悟を決めた人のそれのようであった。
「…私たち、どこかで会ったこと、ない? あなたの声、聞いたことあるような気がするの」
そのあとには、やはり静寂が続いた。キャンドルの炎が瞬いた。
「そう、そうなのね」
「わからない。けど、そんな気がする」
「…ひどく曖昧ね」
歌姫は皮肉げにそう口にした。
「でもそれくらいの方が、信じがいがあるわ」
そう笑いもした。
「私の名前は、ヴェーラ。聞き覚え、ないかしら?」
「ヴェーラ。ヴェーラ…ヴェーラ?」
ハクアが黒い少女の名前を繰り返していると、不意に彼女は頭を抑え始めた。
「大丈夫?」
しかし、ハクアは短く息を漏らすのみだった。
「ごめんなさい、無理に思い出そうとしなくていいわ。ゆっくりでいいの。急ぐ必要はないから」
「落ち着いて。ゆっくり深呼吸して」
彼女は指示に従って、深く呼吸する。
ハクアが落ち着いてから、ヴェーラと名乗った少女は語りかけた。
「最後でいいわ。あなたの名前を教えて」
「私、私は、ハクア。ハクア・ヴァイス」
「そう。…ありがとう、ハクア」
ハクアをどこかで休ませたい。その旨を男に伝えると、彼は宿を取ることを提案してきた。
「ここの表口から出て左に曲がったところに、知り合いの経営してる宿があります。あそこなら安心できますし、ヴェーラの店の紹介だとでも言えば、すぐに部屋を用意してくれるはずです」
「わかった、ありがとうございます」
ハクア、行こう。そう言ってスバルはハクアに肩を貸した。一人、店を出てからの案内を買って出てくれる客がいた。その人物に先導してもらい、スバル達は店をでた。
ありがとう、とだけ言い残して。
「…私、ハクアについて行ってみたい」
残された酒場の中で、ヴェーラは男に訴えた。男は顎に手を当て、悩む素振りを見せた。
そして。
「みんな、それでもいいか?」
歓声が響いた。
「ヴェーラちゃんの笑顔が見られるなら、ちょっとくらいはしょうがねえよ。なあ」
「そうそう、いい経験にしてきてくれよ、歌姫さん!」
「みんな…ありがとう」
「さあ、旅支度を済ませておきなさい。彼らのところには、私が行っておくから」
「ええ、ありがとう」
ヴェーラはそのまま、裏口から出て行った。
そして男は、その場にゆっくりと座った。
「スバルくんもハクアちゃんも、できたいい子達じゃないか。少なくとも、私達より。…なあ、そうだろう? お医者さん」
その身はいつもの白衣に包まれてはいなかったが、金髪の女性は肩を少し、震わせた。
登場人物名前
スバル・ユンツト Süwal Rose von Junzuto
ハクア・ヴァイス Hakua Weiß
ヴェーラ Вера