Buddenbrooks 10
それは、衝撃としか形容できなかった。安堵は、一瞬で思考の濁流に飲み込まれた。一体どういうことだろうか。彼女は、ヴェーラは確実にハクアを認識していた。ならばこちらも見えていない、ということはないはずである。それにもかかわらず、ヴェーラは私のことを「兄さん」と呼んだ。当然妹の顔が想起される。ヴェーラこそが、探し続けてきた私の妹だというのだろうか。しかし、どうにもヴェーラと彼女の輪郭が重ならない。ならば、例えば。
「スバル」
横でした声が、強引に思考を引きちぎった。それまでの思惑は、自我を失っていたと言える程に混沌としたものだった。
「そっち持って。ヴェーラ休ませてあげないと」
彼女が何を思ってそう言ったのかは、聞くまでもなくわかった。こちらに視線を合わせず、それでいて憂慮に満ちた瞳が、何よりそれを語っていたからだ。私は彼女の言う通りに動き、損壊を免れたベンチの一つに横たえる。おかげで、だいぶ冷静に考えることができた。そう、落ち着いて考えてみれば、混乱する必要なんてない事態なのかもしれない。彼女には幼少の頃の記憶がないと私達は聞いていたが、その思い出の中にヴェーラの兄がいて、私と重ねてしまった。このような推論は十分にあり得るのではないか。そうだとすれば、むしろこの事態は、少しでも彼女の記憶が戻った喜ばしいことなのだ。よし。正気は取り戻したことを確認して、ハクアに今の推論を話してみる。すると、張り詰めていた彼女の表情はみるみるうちに緩んでいった。
「なんだ、そっかぁー。びっくりしたよ。ヴェーラがスバルの妹さんなんだなって思ってそっち見たら、すっごい硬い顔してるんだもん。訳が分からなくなっちゃって…でもそういうことだったんだね。安心した」
そう言って微笑んだ。それに返す言葉は見つからない。
彼女は気を使ってか、私とヴェーラに視線を行ったり来たりさせていた。正直落ち着かなかったが、それでも幾分かはマシになったというのものだろう。ようやっと、ハクアの気遣いが身に染みてきた。私は彼女に呼びかけて、ありがとうと伝えた。するとハクアははにかんで言った。
「長い付き合いですから」
「まだ一年くらいだろう」
そう返すと、やはり満足げに微笑む。
「まだじゃなくて、もうだよ」
そう。今のハクアに昔の記憶はない。一年分。彼女の身体とは裏腹に、たったのそれきりの思い出しかないのだ。取り戻してやりたい。いや、取り戻さなくてはならない。彼女の失われた記憶を。ローゼンクロイツで過ごした一年が、彼女の全てではないのだから。
「これから、まだ一年にするんだよ」
不思議そうな表情を浮かべるハクアに言った。
「取り戻そう。ハクアの思い出」
すると、いつにない覚悟の光を灯した瞳が、私を見つめ返す。射し込む夕陽が、彼女の頬を染めあげていた。
「うん。必ず」
ここはリューベック。古くはハンザ同盟の盟主として栄え、デンマークやオーストリア、プロイセンの係争地となった都市。そして、ハクア・ローゼ・ヴァイスという少女にとっての、始まりの場所。




